その後授賞式に移り鳥居ソフィア会会長から賞状が手渡され、副賞としてマスコミ・ソフィア会会員で元首相細川護熙さん(1963法法)制作の「刷毛目丸皿」が村田マスコミ・ソフィア会会長より贈られました。会場で司会の菅家さんより普段の江副さんの様子を聞かれ、同席した江副夫人ジェルさんは、「主人は、常に日本語教育に熱心で、散歩する時にもカメラを抱え日本語教材のため看板などを写しています」と笑いながら話されました。
続いて江副さんによる受賞記念講演は、「日本語文法を可視化する」と題して①日本語はどのような言語か、②日本語文法はどのようになっているのか、③漢字に区分され、独自に工夫した日本語教材模型を手に行なわれました(講演要旨は、マスコミ・ソフィア会会報「コムソフィア」第80号に掲載の予定)。
恒例の記念講演会終了後の懇親会は新型コロナウイルス禍のため中止されましたが、講演会終了後すぐに、視聴したソフィアンから「日本語文法について認識を新たにした。母校が近くなった。」などのメールが関係者に寄せられました。
文:稲村哲(1968文英)・向山肇夫(1963法法) 写真:高部英子(1972文新)
(写真)
江副隆秀さん夫妻を囲んでの受賞記念写真
オンラインでお祝いを寄せられた曄道佳明学長
江副さんの賞状を読む鳥居正男ソフィア会会長
村田亨マスコミ・ソフィア会会長から江副さんに副賞が手渡された
細川護熙さん制作の副賞「刷毛目丸皿」
独自に工夫した日本語教材模型を手に講演する江副さん
マスコミ・ソフィア会が1991年から各界で活躍、実績を残す上智大学関係者(卒業生、教職員、在学生など)を候補として、毎年選考し表彰して参りましたが、今年で28回目を迎えた「コムソフィア賞」には、ソフィア会ホーム・ページや本会ホーム・ページでも概報しましたが、社会貢献活動の分野から須磨美由紀さん(1983文福・日本福祉大学客員教授)が、またメディア分野から川村元気さん(2001文新・東宝プロデューサー・小説家)が選ばれました。その授賞式と受賞記念講演会が、さる7月16日(火)17時20分より上智大学2号館国際会議場で盛大に行われました。
]]> 式典は、菅家ゆかりさん(1981文新・フリーアナウンサー)の総合司会のもと村田亨マスコミ・ソフィア会会長(1964外露)の開会の辞で始まりました。授賞式には、外国出張から帰国したばかりの曄道佳明学長が出席され「ソフィア会とマスコミ・ソフィア会の共催、大学の後援となったコムソフィア賞が、上智大学卒業生のさらなる社会貢献に役立ち学生への励みにつながると思う」と祝辞を述べました。そして表彰状が戸川宏一ソフィア会会長から須磨美由紀さんに、川村元気さんには、村田亨マスコミ・ソフィア会会長からそれぞれ手渡たされました。今年も副賞として、本学卒業生で元首相の細川護熙さんの陶芸作品(向付)が贈られました。授賞式の進行アシスタントとして、今年は王明軒さん(外イ3年・上智大学中国留学生会副会長)が参加しました。 受賞記念講演会には、急な大雨という悪天候にもかかわらず卒業生や学生など90人余りが参集しました。
須磨さんは、「すべての喜び、すべての平和、すべての悲しみとともに」と題して講演。本学社会福祉学科を卒業後、地元の名古屋大医学部大学院で学び直した経緯や、これまでのカンボジアなどにおける支援活動のDVD記録を交えて話しました。ピタウ元学長のもと "Men and Women for Others, with Others"という上智で学んだ"こころ"がこれまでの活動の大きな力となったと話しました。
また川村さんは、「面白さの発見 伝え方の発明」と題して講演。日常生活の中でどんな小さなことに対しても「面白さを発見し、伝え方を発明する」ことの喜びを得ようとする姿勢を持ち続けることによって新しい視点や行動が生まれてくる。それが世界的メガヒットの小説と映画『世界から猫が消えたなら』になった原点であるといった、自身の映画プロデューサーやベストセラー作家となった体験談を話しました。
受賞記念講演会の後学生食堂で懇親会が行われ、佐久間勤上智学院理事長から「コムソフィア賞を通じ学院と在学生、卒業生が一体となって本学の理念を広げていただきたい」との祝辞に続き、受賞者を囲みながら歓談に花が咲きました。会場には、名古屋から参加された須磨さんのご両親をはじめ社会福祉学科の教員・学生たちが今回の受賞を祝う姿が印象的でした。また川村元気さんの新刊『百花』他の販売サイン会も行われました。
なおマスコミ・ソフィア会では、「コムソフィア賞運営委員会」と協力して第29回となる来年の「コムソフィア賞」の候補について、年内には公募を始めることにしています。
写真1.曄道佳明学長(左より2人目)と共に第28回コムソフィア賞受賞者の須磨美由紀さん(左より3人目)と川村元気さん
写真2.戸川宏一ソフィア会会長から表彰状を受け取る須磨美由紀さん
写真3.村田亨マスコミ・ソフィア会会長から副賞を受け取る川村元気さん
写真4.記念講演会の国際会場を埋める参集者
写真5.懇親会で受賞者を前に祝辞を述べる佐久間勤上智学院理事長
写真6.第28回コムソフィア賞表彰状と副賞の元首相細川護熙さん陶芸作品(向付)
5月26日(日)の今年のオールソフィアンズフェスティバル(ホームカミングデー)は会員有志の働きもあって好評のうちに完走することが出来ました。朝9時半から総会、ソフィア寄席、懇親会のため必要物品の運搬、紀尾井亭での寄席の設営、懇親会用の飲み物の買い出し、おつまみ(例によって女性有志による手作りの美味食材多数)の準備等、30度越えの猛暑の中、皆さんが大奮闘し、本番を迎えました。この日を順を追ってご紹介します。
]]>日時:2019年5月26日(日)11:00~12:00
場所:上智大学四ツ谷キャンパス内:2号館 402号教室
まず11時00分より「第32回マスコミ・ソフィア会総会」が、「オールソフィアンの集い」で賑わう母校四谷キャンパスの2号館4階の402号教室にて開催されました。
■第32回年次総会議事
総会では、加藤春一常任幹事('68経経)の司会で開催され、2018年度事業報告について村田亨会長から、また会計報告を金田百合子会計委員より、監査報告については山本明夫副会長よりそれぞれ報告がありました。
続いて2019年度の活動および事業計画案および運営体制について村田会長より、2019年度予算案を金田委員より、さらにマスコミ・ソフィア会会則の一部改定について山本副会長より説明がありました。会則の改定については、1987年の施行以来30余年見直されていなかったのでここで新たに見直して、各章の冒頭に(名称)(目的)などの説明を追加したこと、退会規則を追加したことなどが説明されました。
今年の総会出席会員は17名。「30数年ぶりに帰ってきました」というH.Aさんからは、「コムソフィア賞などこれだけの活動をしているのだからSNSをもっと活用するべき。いまどきSNSを活用できていないのは、マスコミの名前にもとるのでは」との耳の痛いご指摘です。その為にもこの記事をご覧になった皆さんのアドバイス、ご意見を頂ければ幸いです。HPの'問合せ'をクリックいただくと皆様に投稿を呼びかける画面になります。info@cumsophia.jp宛のご寄稿お待ちしております。
総会の最後には、全会一致で全ての提案が原案通り承認されました。
※2018年会計報告、2019年予算、監査報告書、マスコミ・ソフィア会会則改定などについては、閲覧希望の方は事務局までご連絡ください。
さらに、向山肇夫コムソフィア実行委員より、今年のコムソフィア賞受賞式および記念講演会の日程などが発表されました。(受賞者等の説明はすでに[4月26日]に報告済)
第28回「コムソフィア賞」授賞式、記念講演会
日時:2019年07月16日(火)17時会場、17時30分開演
場所:上智大学四谷キャンパス内2号館17階国際会議場
17:30 来賓あいさつ、授賞式開催
17:45 須磨美由紀さん記念講演
18:30 川村元気さん記念講演
19:15 式典終了
19:30 懇親会
20:30 散会(予定)
総会後13時からは、川村元気さんのASF講演会(マスコミ・ソフィア会協力)。「面白さんの発見と組合せの発明」という川村流の仕事の世界について会場を埋めた満員の聴衆が聞き入りました。近著の小説「百花」販売コーナーでは長蛇の列。ASFの行事が目白押しで講演会と重なりましたが、13号館紀尾井亭(元福田家)での「ソフィア寄席」も大盛況。新発足の「落語ソフィア会」の強力な助太刀を頂いてこちらも満席。「来年も是非お願いします」の声が多く聞かれました。
15時半からは再び2号館にて「マスコミ・ソフィア会」の懇親会。33名の出席がありました。ソフィア会戸川宏一会長の乾杯の音頭でにぎやかな交流に花が咲き、校歌の合唱で名残りを惜しみました。
次回の当会が関係するイベントはソフィア会と共催、上智大学後援の「コムソフィア賞」の授賞式と受賞者による記念講演会:2号館17階国際会議場にて7月16日17時受付~式典、講演、懇親会までと盛り沢山です。(申し込みは間もなくソフィア会ニュース、当会HPなどでお知らせしますので是非お出かけください。)
未だ不順な天候が続きそうです。皆様のご健勝をお祈りして・・・
2019.05.31
会長:村田 亨
記
日時:2018年7月12日(木)
場所:上智大学四谷キャンパス2号館17階1702会議室(入場無料)
17:15 開場
17:45 「コムソフィア賞」授賞式
18:00~19:15 受賞記念講演会「取材の現場から―日本と世界を考える」
19:30 懇親会(会費2000円・学生無料)2号館5階教職員食堂
申し込み: ソフィア会webエントリー
マスコミ・ソフィア会
cumsophia@sophiakai.gr.jp
主催:マスコミ・ソフィア会
後援:上智大学・上智大学ソフィア会
道傳さんはNHKに入局後、アナウンサーとして番組キャスターとして主にニュース番組の最前線で活躍、バンコク特派員として東南アジアの抱える諸問題を広域的に取材するなどの実績を重ね、プロデューサとして現場を見続けている。
今回道傳さんには、取材者として見たことをどう伝えるか、取材対象との関係の作り方、インタビューや取材現場に入るまでの準備など、プロデューサとして常に考えていることを語っていただきます。日本と世界で見聞してきた取材現場での経験談は社会人はじめ在校生の皆さんにも興味の尽きないところでしょう。
そして、道傳さんは2014年にノーベル平和賞を最年少で受賞したマララ・ユスフザイさんの自伝の翻訳者でもあります。ジャーナリストの目線で行ったマララさんへのインタビュー、出会いのエピソードなども語っていただきます。詳しくは下記のチラシも合わせてごらんください。
クリックで拡大↓
コムソフィア賞チラシ道傳さん講演A4
磯浦康二マスコミ・ソフィア会会長が、さる4月7日85歳で永眠されました。
磯浦さんは、NHKアナウサーとして昭和天皇崩御の実況やラジオ深夜便で活躍されました。NHK退職後は、国会議員秘書や各地でのアナウンス教室、話し方教室などで後進の指導をされる一方、大学の同窓会・ソフィア会でも活発に活動されていました。
]]> 今から30年前1987年にはマスコミ・ソフィア会創設にも参加され、永年にわたりマスコミ・ソフィア会のリーダーマンとして会の発展に尽力され、まさに"ミスター・マスコミソフィアン"でした。特に学生の就職活動の指導には情熱を傾け、優れたジャーナリストの育成に力を注いでこられました。ご自分の戦時中の体験を踏まえ、一方的な情報を流された苦い思いの反省から、政治を監視する優れたメディアの存在が日本に必要であることを確信された故と推察されます。故人を偲びここに会を計画し、関係者の皆様にご案内いたします。
磯浦康二さん
開催日:5月27日(日)15時より
場所:ASF会場内、2号館4階402教室
会費 :3,000円
主催:磯浦康二マスコミ・ソフィア会会長を偲ぶ会実行委員会
発起人(順不同):新田三千典 最首公司 山口茂 村田亨 加藤春一 向山肇夫
稲村哲 杉村晃一 山田洋子 枝川葉子 村上博 伊藤裕康 金田百合子
参加申込1:下記URLのWEBエントリーから申し込みをお願い致します。
https://www.sophiakai.gr.jp/form/fid_272.html
参加申込2:WEBエントリーがご利用できない方は下記マスコミ・ソフィア会公開メールアドレスまでご連絡ください。
cumsophia@sophiakai.gr.jp
■第31回(2018年度)マスコミ・ソフィア会総会は14時から
会報でもお知らせしましたが、5月27日のASFの日には第31回の総会も行われます。磯浦康二会長が亡くなられた後の大事な検討事項もあります。どうぞ、時間を見つけてご参会ください。
日時:5月27日(日)13時30分受付、14時開会
場所:ASF会場内、2号館4階401教室
ASF2018では、マスコミ・ソフィア会創立30周年記念講演として、フォトジャーナリスト安田菜津紀の講演会も開催されます。新しく出来たソフィアタワーなどの見学もなさりながら、ASF2018に是非ともご参加ください。(30周年記念講演についてはこちらをご参考ください)
≪公開メールアドレス変更のお知らせ≫
74号会報に同封いたしました文書や今まで使用していました当会への連絡アドレス
info@cumsophia.jp
は、ソフィア会の公開メールフォーマットに統一するために廃止しました。恐れ入りますが、今後マスコミ・ソフィア会へのご連絡は新しいアドレス
cumsophia@sophiakai.gr.jp
にお願いします。
謹んでご冥福をお祈りしますとともに、茲にご報告申し上げます。
磯浦さんは1957年文学部新聞学科ご卒業、NHKに入局しアナウンサーとしてご活躍、退局後も現在に至るまで各地のアナウンス教室などで後進の指導に当たられていました。
1988年マスコミ・ソフィア会創設に参加、濱口初代会長とともに当会の発展に寄与され、その後2代目会長としてご活躍、2017年には同窓会活動への貢献などによりソフィア会の顕彰を受けられました。
2018年は当会創立30周年に当り、記念事業企画を楽しみにしていらっしゃいました。企画が実施される5月のオールソフィンアンフェスティバル(ASF)に参加することならず、さぞや無念であられたろうとご推察、心痛むばかりです。
会員の皆様、夫々のお気持ちでご冥福をお祈り頂ければ幸甚に存じます。
葬儀、告別式は下記の通り執り行われますのでお知らせ申し上げます。
記
○ 通夜 4月11日(水曜日)18時より
○ 告別式 4月12日(木曜日)11時より
○ 斎場 「メモリアルハウス小田急相模原」電話042-701-3020
(相模原市南区南台3-8-1 小田急・相模原駅北口下車6分)
https://www.e-nagataya.com/hall/memorial_house_odakyu_sagamihara.html
相模原駅には急行は停車しません。一つ手前の相模大野駅で普通に乗換えると便利です。
北口に出て広い道路(行幸道路)を新宿方向へ行くと間もなくです。
以 上
]]>5月29日(日)12時00分より「第29回マスコミ・ソフィア会総会」と「第25回コムソフィア賞授賞式」が、「オールソフィアンの集い」で賑わう母校四谷キャンパスの2号館4階の401号、402号教室にて、会員約100名余の参加の下開催されました。
■第29回年次総会議事
まず総会は正午から2号館402号教室で、フリーアナウンサーの菅家ゆかりさん(1981文新)の総合司会で開催され、2015年度事業報告、会計報告、監査報告、2016年度事業計画案、予算案、人事案が提案され全会一致で原案通り可決されました。
]]>
人事では、磯浦康二代表幹事(1957文新)が、3年間空席となっていた会長に就き、また加藤春一監査役(1968経経)が副会長に選任されました。
(2015年活動報告、2016年事業計画)※クリックでダウンロード
(2015年度会計報告 / 2016年度予算案)※クリックでダウンロード
(新役員名簿)※クリックでダウンロード
■第25回コムソフィア授賞式
続いて第25回コムソフィア賞授賞式が行われ、
植木千可子さん:1981年上智大学外国語学部フランス語学科卒)
早稲田大学大学院教授・アジア太平洋研究科
孔 健さん :1996年上智大学大学院文学研究科新聞学博士課程修了)
週刊チャイニーズドラゴン主幹・孔子研究家・世界孔子協会理事長
石川 えりさん:1999年上智大学法学部国際関係法学科卒
認定NPO法人難民支援協会代表理事
の3人に、磯浦会長から賞状が手渡されました。
また副賞として、受賞者の女性2人には、マスコミ・ソフィア会会員の細川護熙元首相制作「粉引丸皿」が、孔健さんには同じ細川元首相が初めて制作した「ビールカップ」が、向山肇夫コムソフィア賞選考委員長から贈られました。
左から、石川 えりさん、高祖敏明理事長、植木千可子さん、孔 健さん、早下隆士学長
■コムソフィア賞受賞記念講演とシンポジウム
午後1時からは会場を401号教室に移して、約100人余が参加して記念講演とシンポジウム「ソフィアンが語る今日の戦争と平和」が開催されました。
植木千可子さんは「平和のための戦争論」、孔 健さんは「中国の今後の世界での役割」、石川 えりさんは「難民から見る世界と日本」というテーマで講演されました。
続いて、マスコミ・ソフィア会副会長の加藤春一さんがモデレーターを務めてのシンポジウムでは、3人の受賞者と「今後の日本の針路について具体的な提言と意見交換」を行いました。討論は1時間以上続き最後に3人は次のように語りました。
石川えりさん
「私たちが難民とどう向き合うのかは、私たちが社会とどう向き合うのか、どういう社会が良いと思うのかということだと思う。そのためには一人一人が考えていき、難民を受け入れると思うのか、思わないのかの議論を積み上げていくことが大切と思う」
孔健さん
「日本政府は日米関係だけでなく、日中関係も大事にしてくださいと言いたい」
植木千可子さん
「もし、日本が戦争に参加することになるならば、それは国民が主権を持って初めての戦争ということになる。かつての戦争で国民は主権を持っていなかった。今後は私たちが決めることで、後になって、こんな筈ではなかったということが絶対にないようにしなければならない。そのことを充分に考える必要がある」
※上記講演録は改めて後日掲載いたします。
■懇親会
そして午後3時40分から再び402号教室に移り、約80人が参加して懇親会が行われました。
今年は、本多義人元ソフィア会会長の乾杯のご発声でスタート。上智学院の高祖敏明理事長と上智大学の早下隆士学長も参加いただき、受賞者と記念写真を撮るなど会は大いに盛り上がりました。
最後に参加者全員が肩を組んで「みよとこしえに春よみがえり・・・」と校歌を斉唱して午後4時40分に無事閉会いたしました。(レポート:磯浦康二 '57文新)
]]>■2016年度コムソフィア賞が決定
マスコミ・ソフィア会は、さる2月22日「第25回コムソフィア賞最終選考委員会」を開催。会では、向山肇夫選考委員長、村田亨('64外露)副会長をはじめ、マスコミ・ソフィア会の常任幹事8名と、戸川宏一('63経商)ソフィア会副会長、黒水則顯('78文新)三水会会長の事前投票も含め、厳正に選考会が行われました。候補者の募集・推薦は昨年12月~今年1月末まで、ソフィア会会員ならびにマスコミ・ソフィア会員から受付け、これらの候補から質疑応答の後、最終選考を行い次の3名の方々に賞を贈ることを、選考委員の満場一致で決定いたしました。
コムソフィア賞:植木(川勝) 千可子さん(うえき ちかこ)さん
(1981年外国語学部フランス語学科卒、1983年大学院外国語学研究科(国際関係論専攻)修士課程修了、早稲田大学大学院教授)
◆コムソフィア賞:孔 健(こう けん)さん
(1996年大学院文学研究科新聞学博士課程終了、週刊チャイニーズドラゴン主幹)
◆コムソフィア賞:石川えりさん
(1999年法学部国際関係法学科卒、認定NPO法人難民支援協会代表理事)
左から植木千可子さん、孔健さん、石川えりさん
◎植木 千可子さん(コムソフィア賞)
安倍政権は集団自衛権の行使を容認し、世界で自衛隊の軍事力行使の基準を緩和。われわれ国民はどう対処すべきか、集団的自衛権の容認は何をもたらすのか? 国民は参議院選挙を控え判断を求められている中、現下の火急の問題に長年にわたる世界の安全保障研究成果が、著書「平和のための戦争論:集団的自衛権は何をもたらすのか?(ちくま文庫)」として結実。世界的視野に立った抑止論は今後の日本の針路を考える上で貴重であると評価されました。
◎孔 健さん(コムソフィア賞)
中国との対話は、今や日本のみならず世界の課題である。上智大学大学院新聞学科卒業後「週刊チャイニーズドラゴン」を創刊し、さらに多くの著作活動を通じて日中対話への貢献は大変大きい。日中対話への論陣は、時には日本・中国両国にとって鋭く重く、今後の日中関係にとって欠くことの出来ない貴重なジャーナリストととして評価されました。
◎石川えりさん(コムソフィア賞)
難民問題に学生時代から関心を寄せ、卒業後も難民支援協会に属し、日本における難民問題解決に努力を重ね、国会にも働きかけ日本初の難民認定関連法案改正に貢献。現在難民問題は全世界に拡大し、特にEUは押し寄せるシリア難民で大きく揺れる中、国境を越えて活動する石川さんの難民への温かい視点に今後の活動への期待が大きく評価されました。
今回は25回という節目であることから、授賞式ならびに受賞者の記念講演会、懇親会を5月に行われる「オールソフィアンの集い2016」会場にて行うことになりました。つきましては、みなさまお誘い合わせの上ご参加いただきますようよろしくおねがしいます。
■授賞式日程
◎授賞式
日時:2016年5月29日(日)11:30開場/12:00開会
場所:上智大学四ツ谷キャンパス内:2号館 401号教室
参加費:無料(マスコミ・ソフィア会会員のみ)
◎基調講演会(主催:マスコミソフィア会、協力:経済人クラブ、三水会)
日時:2016年5月29日(日)12:30開場/13:00開会
場所:上智大学四ツ谷キャンパス内:2号館 401号教室
参加費:無料(一般公開)
◎懇親会(主催:マスコミソフィア会、協力:経済人クラブ、三水会)
日時:2016年5月29日(日)15:15開会
場所:上智大学四ツ谷キャンパス内:2号館 402号教室(401号教室のとなり)
参加費:卒業生・一般2,000円、学生500円
懇親会の参加ご希望の方は下記メールアドレスに「参加希望」と書いてメールで申込みください。(基調講演会は懇親会参加メールをいただいている方優先入場となります)
info@cumsophia.jp(マスコミ・ソフィア会事務局)
■基調講演会等タイムスケジュール
11:30 マスコミ・ソフィア会総会受付開始(2-401号室)
12:00 総会とコムソフィア賞授賞式(マスコミ・ソフィア会会員のみ)
12:30 講演とシンポジウム開場(一般者観覧)
13:00 「ソフィアンが語る今日の戦争と平和」講演会
13:00 植木 千可子(うえき ちかこ)さん講演
講演テーマ「平和のための戦争論」
13:20 孔 健(こう けん)さん講演
講演テーマ「中国の今後の世界での役割」
13:40 石川えりさん講演
講演テーマ「難民から見る世界と日本」
14:00 休憩
14:10 シンポジウム「今後の日本の針路について」
モデレータ:加藤春一、パネリスト:植木 千可子、孔 健、石川 えり
15:10 シンポジウム終了
15:15 懇親会(隣の2-402号教室にて)
15:50 校歌を歌う
16:00 閉会
■コムソフィア賞について
「コムソフィア賞」は、上智大学の卒業生でマスコミ関係者約千人で組織する同窓会「マスコミ・ソフィア会」が、上智大学卒業者・関係者を顕彰するために設けたものです。今年で25回目になります。今回も、候補者の選考基準は、地域や国際社会への貢献度、内外ジャーナリズムへの貢献、母校への愛情、ソフィアンとしての誇り等の項目について細かく評価、特に「なぜ、今年なのか」という観点も重視しています。
※過去の受賞者はこちらを御覧ください。
http://cumsophia.jp/賞の歩み/
■受賞者プロフィール
植木(川勝)千可子さん(早稲田大学大学院教授・アジア太平洋研究科)
1981年上智大学外国語学部フランス語学科卒。1983年上智大学外国語学研究科(国際関係論専攻)修士課程修了。2006年マサチューセッツ工科大学大学院政治学研究科博士課程修了、博士号(Ph.D.政治学)を取得。朝日新聞記者(政治部等)、北京大学客員研究員、防衛省防衛研究所主任研究官などを経て2008年から早稲田大学アジア太平洋研究科教授。専門は国際関係論、安全保障論。主な著書に、『平和のための戦争論』(ちくま新書)、『北東アジアの「永い」平和』(勁草書房)など。
孔健さん 週刊チャイニーズドラゴン主幹
1996年上智大学大学院新聞学科博士課程卒業後、「週刊チャイニーズドラゴン」を創刊。孔子研究家、世界孔子協会理事長。日中関係評論家として多くの著作活動を通じて日中対話への貢献している。中国との対話は日本のみならず世界の課題であるが、孔氏の発言は日中両国にとって時に鋭く重い。今後の日中対話にとってきわめて貴重なジャーナリスト。
石川えりさん 認定NPO法人難民支援協会代表理事
1999年上智大学法学部国際関係法学科卒。学生時代、国連高等欧弁務官の緒方貞子氏の活動を尊敬し「1994年のルワンダ内戦」を機に難民問題に関心を深め、卒業後は難民支援協会に属し、日本における難民問題解決に努力を重ねてきた。国会に働きかけ日本初の難民認定関連法案改正に貢献。現在難民問題は全世界的に拡大、特にEUは押し寄せるシリア難民で大きく揺れる中、今後の日本の難民問題活動のリーダーシップ的存在。
上智大学戦没者追悼ミサが、さる6月14日(日)13時半より聖イグナチオ教会マリア聖堂で厳かに開催されました。ミサは、上智大学戦没者追悼の会主催もとソフィア会・マスコミ・ソフィア会共催、上智学院・上智大学協力により学徒動員された先輩方を中心に約150名が参集しました。学徒動員組の先輩方もすでに90歳を超えて終戦70年の節目の年の記念にふさわしい追悼会となりました。
追悼ミサは、上智大学理事長髙祖敏明神父様の主司式のもとに行われ、SJハウス、カトリックセンター、聖歌隊、グリークラブとそのOB会の協力もいただきました。髙祖神父様は説教の中で、上智大学戦没者には日本人学生だけではなく台湾・朝鮮出身学生も含まれており共に冥福を祈りたいと訴えられました。
続いて共同祈願者の若林倫夫氏(1945経商)は、学徒動員された卒業生を代表し、また元ソフィア会会長の本多義人氏(1961経経)は、準備委員会を代表し、西丸なほみさん(1962外仏)は、父上(故志村正順氏)が昭和18年10月21日に神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会の実況放送アナウンサーを務められたご縁で、それぞれの立場から祈りを捧げました。
ミサの聖歌は、聖歌隊によってリードされ、グリークラブとOB会も加わり聖堂内は厳かな雰囲気に満たされました。
上智大学戦没者追悼の会は、学徒動員から無事戻られた11名の方々を中心、戦争を身近に知っている卒業生89名が発起人となり、今年4月に発足しました。発起人代表には、海軍航空隊特攻であった江副隆愛氏(1947文史)がなられ、今回の追悼ミサが実現しました。
]]> ▼写真展示された戦時下の上智大学の学園生活追悼ミサに続いて、上智大学戦没者を偲ぶ会がヨセフホールで開かれました。同時にマスコミ・ソフィア会による戦時下の上智大学の学園生活と学徒動員による軍隊での写真展示もありました。
会は、最初に黙祷を捧げた後、主催者代表江副氏から追悼ミサ開催の感謝の言葉があり、続いて早下隆士学長そして学徒動員の経験のある九州から参加された大木章次郎神父(1952文哲)様からご挨拶をいただきました。本多代表からは、偲ぶ会の参加者107名への感謝の言葉と戦没者への「献杯」の発声がありました。
そして学徒動員組の7名の紹介と当時の体験談や歓談に移りました。昭和20年4月7日調布市上空でB29に体当たりしてこれを撃墜し、戦死した河野 敬氏(1941予科入学)の紹介、さらに特攻機の整備は当時の朝鮮出身者であったという中島重行氏(1944専新)の証言、入隊に際して家族に残した故諸橋晋六元ソフィア会会長の「遺書」と兵隊姿の写真などが順次紹介されました。
最後に戦没者を偲び「海ゆかば」、「同期の桜」そして「校歌」を合唱し、偲ぶ会を終了しました。以下当日の写真レポートもご参照ください。(レポート:風間 烈 '65外仏・上智大学戦没者追悼の会発起人、写真:(株)フォウカス・高嶋正喜、上智大学資料室)
▼当日の現場での写真
<追悼ミサ(聖マリア聖堂)にて>
写真1髙祖敏明神父様の主司式により上智大学戦没者追悼ミサが始まった
写真2参列された学徒動員卒業生(中央右より江副隆愛氏・1947文史、神津友好氏・1947専新、上田早苗氏・1949経経、中島重行氏・1944専新、香川節氏・1945文史)
写真3学徒動員された卒業生を代表し共同祈願する若林倫夫氏(1945経商)
<上智大学戦没者を偲ぶ会(ヨセフホール)にて>
写真5会場ホール入口を飾った上智大学戦没者追悼ミサのポスター
写真6感涙し挨拶する江副氏(発起人代表)、左隣は偲ぶ会の司会を担当した筆者(風間烈)、髙祖理事長、早下隆士学長、大木章次郎神父
写真7戦没者への「献杯」の発声する元ソフィア会会長本多義人氏(1961経経・準備委員会代表)
写真11会場にはマスコミ・ソフィア会により戦時下の学園生活や学徒動員による軍隊での写真が展示された
「第28回マスコミ・ソフィア会総会」が、上智大学ソフィアンズクラブにて開催されました。
]]> 今年は、事前にお知らせした通り「戦後70年」の節目の年ということで、会報「コムソフィア」68号では「学徒動員体験者の証言」を特集。更に5月31日(日)の「オールソフィアンの集い」では「戦後70年、戦時下の上智 写真展と講演会」を開催。さらに6月14日(日)に「追悼ミサの会」有志によって聖イグナチオ教会マリア聖堂で行われた「上智大学戦没者追悼ミサ」への協力および会場での写真展の実施をしたため、例年の「コムソフィア賞受賞式」を中止し、総会のみを行う運びとなりました。■第28回年次総会議事
磯浦康二('57文新)代表幹事の進行のもと、2014年度活動報告があり、続いて山口茂('57経経)常任幹事(会計担当)、加藤春一('68経経)常任幹事(監査担当)、村田亨('64外露)副会長(活動計画担当)各委員より、会計報告、2015年度活動計画、予算案提案の報告が行われ、すべての議事について、満場一致で承認されました。
村田亨('64外露)副会長(活動計画担当)からは、これからのマスコミソフィア会の活性化、組織の活性化をどうするかを主眼に2015年度の活動計画が披露されました。その一部をご紹介します。
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(村田)大きなことで言えば、マスコミソフィア会の活性化、組織の活性化をどうするか、この会議に集まる方はいつも同じ顔ぶれですので、まずはそうではない人にも参加してもらう施策を考えるための「小委員会」を発足させたいと思います。ただどうやって作ればいいかが一番大きな課題でもあります。
「小委員会」での活動内容としては
◎会員交流の活性化、新会員勧誘運動
◎マスコミ・ソフィア会のPR活動促進(Cumsophia OnlineHP
◎三水会、ソフィア会関連団体との連携強化
三水会に関しては、前年度のコムソフィアオンラインの一覧表をご覧になれば分かるように、紀尾井の森講演会よりも活発に行われていることもあって、三水会においての講演会の合同実施などを、これまで以上に行っていく必要があろうかと思っています。
また三水会は毎回新しい出席者の方を見かけることもあって、なにかうまく協力を仰げるような関係を築ければいいと思っています。
それと、濱口さんが亡くなった後の会長職が空席になっている、同じく常任幹事会というのも新しい顔ぶれを増やすという事も含めた「幹事会の体制リニューアル」も今年度目標に掲げたいと思います。
これらは今年は本気でやらないと、みんなおじいさんで死んでしまう笑。
そしてもうひとつ、今回お休みした「第25回コムソフィア賞」をどういう形で実施するか。土屋さん、加藤さんのアイデアを伺いました。もっと外に知ってもらうにはASFで実施するのが良いのではなかろうかという話。25回目という区切りの数字のこともありますし、オールソフィアンの参加イベントとして実施の検討を始めたいと思います。そのためにはどこにお願いをすればいいのかも含めて、夏休み明けから動き始めたいと思います。
このあたりが起爆剤になって若いひとたちに、あ、そういうことがあるんだとか、マスコミ・ソフィア会のマスコミとはそういう意味なんだとか、会のあり方を考えるきっかけにもなるように、25回コムソフィア賞、せっかく1年伸ばしたんですから、ぜひとも形にしたいと思っています。(レポート:土屋夏彦 '80理電)
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以下 関係資料
アジア太平洋・15年戦争の末期に行われた学徒動員や徴兵で上智大学からも、学び舎を離れて戦場に向かい、再び還ることの出来なかった多くの仲間がおります。
この戦後70年の節目に当たり、そうした仲間を偲び、追悼の行事を行いたいという機運が後輩達の間にも高まり、この度「上智大学戦没者追悼の会」を立ち上げ、下記の通り「追悼ミサ」並びに「戦没者偲ぶ会」を行う運びとなりました。
日時:2015年6月14日(日)(無事終了いたしました)
13時30分~ 追悼ミサ
聖イグナチオ教会マリア聖堂
14時30分~ 戦没者を偲ぶ会
ヨセフホール(聖イグナチオ教会内)
共催:上智大学ソフィア会、マスコミ・ソフィア会
協力:上智学院・上智大学
戦没者のご遺族の方にも是非ご参加頂きたいので、ご遺族の方の連絡先などをご存知の方はソフィア会事務局までお知らせください。また、ご遺族等の消息をご存知の方、その他お問い合わせは下記にご連絡ください。
〒102-8554 東京都千代田区紀尾井町7-1上智大学ソフィア会事務局 山崎
E-mail:jimukyoku@sophiakai.gr.jp Tel:03-3238-3041
毎年ゴールデンウィーク後の5月最終週の日曜に行われ、8000人を超す現役学生や卒業生が集う「オールソフィアンズフェスティバル(ASF)」にて、マスコミ・ソフィア会は、戦後70年を機に、戦争体験を後世に伝えるため、上智大学出陣学徒の声を集めて記録に留める活動の一環として「写真展と体験者講演」を開催することになりました。
コムソフィア(会報誌)No68でも特集した「学徒動員体験者の記録」に関する写真の展示はもとより、当日は、卒業生で体験者の方々をお招きしての講演会も催す予定です。
1943年10月、専門部新聞学科生全員入隊を前にしての記念撮影
(後列左より4番目:故・マスコミソフィア会・濱口浩三会長)
◆タイトル:戦後70年 戦時下の上智、学徒動員 ー 写真展と体験者講演
◆日時:2015年5月31日(日)
◆時間:11:00~15:00
◆場所:紀尾井坂ビル1階115教室(図書館の奥、11号館を入って左奥のビル)
◆主催団体:マスコミ・ソフィア会
▶戦後70年を機に「学徒動員体験」を語り継ぐ機運高まる!(編集室)
▶再び母校ソフィアの校歌を謳えず戦死した学友を悼む(香川節 1945文史)
▶《追悼》戦闘機でB29に体当たりした学徒動員上智大学生(江副隆愛 1947文史)
▶長崎に原子爆弾を投下したB29を見上げていた(故 石井恭一 1948経経)
▶あとがきにかえて:終戦が半年早ければ(磯浦康二 1957文新)
1945年1月、学徒動員による水戸陸軍航空通信学校召集尉官生卒業式
1943年10月、専門部新聞学科学生全員入隊を前に記念撮影
(後列左より4人目:故・マスコミ・ソフィア会・濱口浩三会長・元TBS社長)
(前列左より4人目:中島重行氏)
1944年11月、訓練中の水戸陸軍航空通信学校召集尉官生と特別操縦見習生たち
(後列右より2人目:中島重行氏)
香川節氏
私は1941(昭和16)年4月に上智大学予科に入学した。同年12月8日に対米英開戦。当初は好調に見えた戦局は1942年6月から中部・南太平洋の作戦が不利になる気配で、予科の課程が2年から1年半に短縮された。私は文学部史学科に進学し、1944年9月までは授業を受けられたが学徒勤労動員令が出て10月からは「上智大学勤労報国隊」として工場に動員された。そして、1945年6月20日、私もとうとう陸軍に入隊する命令書を受けた。そして6月27日東部第十七部隊に入り、広島市東郊の八木松に出動した。もはやドイツも降伏して、日本だけが連合国の包囲に遭い、沖縄周辺では特攻戦術(片道だけの燃料と爆弾を積んだ飛行機で、敵の軍艦に体当たりする自殺戦法)など、苦しい抵抗を続ける戦争末期である。
8月6日には広島に米軍の残虐極まる原子爆弾を落とされて、私もそのショックを受けたのであるが、それが戦争終結の最終的契機となることはご承知の通りである。
9月20日に復員し、無事東京立川の自宅に帰れたが、一週間後に上智大学の卒業式を焼け残った校舎の事務室で、卒業証書を総長代理の吉安健吉先生から受けて、ともかく文学士となったのである。そのときはたった5名の学生が参集したものであった。やがて、私は土橋八千太先生からお勧めを受けて、上智大学図書館に勤務することになり、他所に疎開してあった図書を元に戻したり、また米国など海外から新着する図書を受け容れ、分類して配架したりする作業を一年間続けたのである。
敗戦から、すでに70年を過ぎた今、ともあれ平和日本に安住している。今の母校の教授、学生たちは、もう全くあの大戦の実態を知らないであろう。遠い昔のお伽噺のように感じられるかも知れない。しかし、ソフィアの校歌を謳った学生たちの何十人かが、あの大戦で戦死して、再び母校に戻ることが出来なくなったという事実を、厳粛に考えて欲しいと思う。
私たちの世代は、死線に追いやられ戦争の悲惨さ、反道徳性をイヤという程知っており「絶対に戦争をしてはならない」と心から念じている。
今、予科生のとき、同級だった河野敬(誉之)君の壮烈な特攻戦死を悼みつつこの一文を記す。
江副隆愛氏
戦後70年を迎え、戦闘機でB29に体当たりした学徒動員による上智大学生がいたことを知った。河野敬少尉(昭和16文哲入学、陸軍航空兵で昭和20年4月7日東京上空B29を撃墜して戦死)です。
今でこそ、私たちの過ごした時代を軍国主義にまぶされた暗い時代と言われますが、それを生きた私たちにも、青春という時代がありました。
私たちは突然戦争に引きずり込まれたのです。それまで日本を仮想敵国として周到に準備していたアメリカに無謀な戦いを挑んだのです。それまでは不意打ちで得た勝利でした。緒戦の華々しい戦果に酔いしれたまま、勝利の夢がほころびにほころんでも、国民の殆どは"われ関せず"だったのではないでしょうか。
これではならぬと立ち上がった若者たちがいます。海軍で言えば、第13期飛行予備学生、陸軍で言えば、陸軍特別操縦見習士官第1期生に応募した大学生たちでした。
彼らは親に隠れて応募しています。親に言えば「なんでそんな危険な飛行機乗りにならねばならぬのか」と、反対されるに決まっていたからです。現在の若者たちには想像もつないかもしれませんが、その頃の私たちは、自分を若侍ととらえ『武士道といふは死ぬ事と見付けたり』を金科玉条としていました。死に場所を与えてほしかったのです。
震天制空隊に属した河野敬少尉の心中もそうであったに違いありません。一機一艦を屠るのも、B29を叩き落とすのも、当時の特攻隊員にとっては、掛替えのない死に場所だったといえます。河野少尉と同時に飛び立ち、他のB29に体当たりした古波津里英少尉は落下傘降下を試み、九死に一生を得ています。河野少尉にも、体当たりの瞬間に、命があって操縦席から落下傘を外す機会はあったかもしれません。しかし、死に場所を得た河野少尉は、歌っていたかもしれません。特攻隊がよく口ずさんだ"五木の子守歌"を。
♪ おどま盆ぎり 盆ぎり 盆から先や おらんど......
海軍甲種飛行予科練習生募集のポスター
(国立歴史民俗博物館展示より)
戦争末期、おそらく私は、クラスの中で一番最後になったのではないかと思いますが、大分の軍隊に入りました。長崎、大分県の本籍地をもった少年兵、約50名が長崎に集められ、長崎を取り巻くように高射砲部隊が5つ、6つあったのですが、私は一番右の方の三菱造船所の後ろの高射砲隊に配属されました。これが命拾いになったわけです。
ご承知のように8月9日、B29は原子爆弾を積んでまず小倉に参りました。原子爆弾を積んで小倉の上空に行きましたら、小倉は雲がずっとかかっていて、原子爆弾の投下の際に下が見えない。投下するに際しては、「必ず投下するのを目撃し、爆発するのを目撃せよ」そういう命令があったわけです。
それで小倉をグルグル回ったのですが、とても雲が厚くて、命令どおりの投下ができない。それで第2目標の長崎へ参りました。ところが当時、長崎の上空は幅5キロ、長さ20キロの雲が覆っておりました。で、B29はそこまで来るのに燃料がいっぱいだったのです。もう、これは長崎は、一遍上空を通過するしかない。原爆を投下するか、しないかは1回しか機会がない。だめなら、そのまま基地に帰るというところまで進んできましたから、爆撃士が機長に「右前方に市街地が見えます」というので、そちらの方に変進してくれと言われました。確かに前方を見ますと、雲の切れ目からちょうど市街地が見えたのです。それで「これしか機会がない」というので、機長がそちらの方にB29を変進しまた。それで原子爆弾を投下いたしました。そして急激に左旋回をしながら雲から出た。それをちようど私は下の高射砲隊から見上げておりました。その距離が、まっすぐに来たら、おそらく私は20歳の人生を終えていたと思うのですが、斜め右に進路を変えましたので、爆心から5キロになりました。そのために非常に熱風と強烈な爆風は受けたのですが、幸い命を取り止めました。しかし、私はそれを運がよかったとは思っておりません。私が命拾いをしたとき、5キロ離れたところでは7万、8万の方が命を落としておられたので、これは自分が運がよかったということはとても言えないと思っております。
(元社会福祉法人ラ・サール会理事長、第14回コムソフィア賞受賞記念講演より抜粋、「コムソフィア」第48号より)
諸先輩の戦時中の体験記を読み、改めて70年前の悪夢がよみがえり胸が一杯になる。
★当時私は、夜はゲートルを着けて眠り、空襲警報のサイレンで飛び起き防空壕に入る毎日だった。昭和20年4月13日夜、B29爆撃機500機に襲われ焼夷弾が雨あられと降り注ぐ中を逃げ惑う。東京は一面の焼け野原、黒焦げの焼死体があちこちに転がっていた。
★日本の敗色が濃厚となった昭和20年2月初旬ヤルタ会談が行われ、ソ連のスターリン首相は「ドイツが降伏した3ヶ月後に日本に対して参戦する」とアメリカのルーズベルト大統領と密約を交わした。ストックホルム駐在武官の小野寺信少将は、早くも2月中旬にこの情報を察知し東京の陸軍参謀本部に打電した。しかし参謀本部は何故か握りつぶす。その後7月、日本政府はソ連に戦争和平仲介を依頼しようとして断られ、まるでマンガのような事態を招く。
★軍事機密を盾に負け戦を国民に隠し、神風が吹くと唱えて漫然と戦争を続け、昭和18年「学徒動員」を行う。当時の高級参謀や日本の職業軍人は有為の若者を戦場に駆り立て多くを死なせた。特攻隊の指揮官たちは「俺も後に続くぞ!」と言いながら結局誰も飛び立たなかったという。
★特攻隊の建前は「志願」だが実態は「命令」だった。「武士道と云(い)ふは死ぬこととみつけたり」を「葉隠」から抜き出して利用。私たちの年代は生まれた時からアジア太平洋戦争(15年戦争)が始まっていたため「天皇陛下のために死ぬことが国民の義務である」と徹底的に教育され、当時は疑問に思わなかった。
★特攻で戦死した先輩たちの心情を思うと涙が止まらない。そして当時の軍への怒りがこみ上げてくる。もし半年前の2月中旬に戦争を止める動きがあれば「東京大空襲や全国の都市空襲」も「原爆投下」も「沖縄の激戦」もなかった。戦争指導者は敗戦責任をどうとったかを問い直すことが必要だ。
以上
]]>告別式では和泉法夫前ソフィア会会長が弔辞で、上智大学が大学紛争で苦難の時代に、学生に理解を示しながらも、ここぞという時には毅然とした態度で事態を解決に導かれたなど思い出を語った。
最後に讃美歌と校歌の流れる中、参集者が花を手向けた。
]]>
ヨゼフ・ピタウ氏は、イタリア、サルデーニャ州ヴィッラチードロの生まれ。
1945年にイエズス会に入会。1952年、スペイン・バルセロナ大学にて哲学を修めた年に来日。
1960年上智大学大学院神学研究科修了。1963年にハーバード大学大学院政治学研究科を修了、日本の政治史に関する論文で博士号を取得。
1966年より上智大学法学部政治学教授、その後1968年から1981年まで上智大学学長を務められました。(wikipediaより引用)
今回の「第24回コムソフィア賞授賞式」では、
◎コムソフィア賞:師岡文男(もろおか ふみお)さん('76文史)、
◎コムソフィア濱口賞:安田菜津紀(やすだ なつき)さん('10総合人間教育)
のお2人が受賞されました。
ここで、コムソフィア賞濱口賞を受賞された安田菜津紀(やすだ なつき)さん('10総合人間教育)の特別講演会の模様をお伝えします。
※第27回マスコミ・ソフィア会総会・第24回コムソフィア賞授賞式(速報)については「こちら」を御覧ください。
写真:右から師岡文男氏、安田菜津紀氏
カンボジアへ行く
私がフォトジャーナリストになるきっかけになったのが、カンボジアに足を運んだことでした。
カンボジアという国。内戦を経てきている国。今でも地雷、貧困問題といった戦争の爪痕が根深く残っている国。この国に私が初めて足を運んだのが、今から11年前。2003年。高校2年生、16歳の時でした。
なぜ高校2年生の時にこの国に足を運ぶことになったのか。国際協力にすごく興味があったかといえばそうでもありませんでした。人助けがしたかったのかといえばそれも違いました。私の中で大きな理由になったのは、中学2年のときに父を失ったこと、中学3年のときに今度は兄を失ったことでした。
家族とは何なのか。人と人との絆はいったい何なのか。たくさんの答えの出ない疑問が私の頭の中を渦巻いていた時でした。その時に国境なき子どもたちという団体が日本の11歳から16歳の子どもをアジアに派遣して取材をさせるという、一聞すると無茶ぶりなプログラムがあることを知りました。はじめは触手が動きませんでした。でもふと気になることがありました。まったく違う環境に生きている同世代の子どもたち。例えば路上生活かもしれない、例えば何かしらの事情で家族と暮らせていないかもしれない子どもたちは、どのような価値観を持って家族観を持って絆を結んでいるのか。全く違う価値観に触れることができれば、何か自分自身に答えをくれるのではないか、そんな自分本位な気持ちでこの国を訪れました。
トラフィックチルドレンに教わったこと
私が主に時間を過ごしたのは、トラフィックトチルドレンと呼ばれることもたち。訳すと売買された子どもたち。つまり人身売買の被害に遭った子どもたちです。内戦後、とくに農村部を中心に貧困家庭がたくさん生まれました。そこにトラフィッカーと呼ばれる人身売買業者が近づいてきます。お母さん、子どもたちを僕に売ってください。働きながら学校に行かせることができますから、と。
売られた子どもたちは、その先でもちろん学校に行けるはずもなく、1日中路上で花やキャンディーを売らされる、物乞いをさせられる。女の子は売春宿に売られる。そうした過去を持った子供たちと一緒に時間を過ごしました。
普段は底抜けに明るい子たちでした。外から来た私たちをあっという間に輪に引き入れてくれる。しかしひとたび過去のことに触れると、表情が一変します。彼らの語る過去はどれも壮絶でした。自分自身の価値がお金に変わってしまった瞬間の話。彼らはよく自分の値段を覚えていました。6000円、5000円、あるいはそれ以下。売られていった先で、殴られる蹴られるの虐待を受けただけでなく、電気ショックまで与えられた話。13歳のときに売春宿に売られた時の話。
ただし、彼らが真っ先に話す話。それは、自分はこんなつらい思いをした、こんな悲しい経験をしたという自分の話ではありませんでした。自分は今こうして施設で食べるものがある、寝る場所がある。でも今頃、家族は何も食べられていないかもしれない、寝る場所がないかもしれない。自分は長男だから、長女だから、いち早く家族のためにつける仕事は何だろう。そのために職業訓練って何だろうと、まず最初に家族のことでした。自分自身がだまされてお金で売り買いをされて働かされて。それでもなお最初に家族のことを気遣う。自分以外に守りたいものを持っている子たちってこんなに人にやさしくあれて、こんなに強くあれるんだって。今さかのぼって思い出すと、上智大学の精神によく似ています。For Others With Others. それを一番最初に教わったのがこのカンボジアという国でした。
帰国してから私自身、何かをしたいと思うようになりました。彼らのような思いをする子どもたちが一人でも減ってほしい。でも当時高校2年生です。自分自身にできることはほとんどありませんでした。自分はたくさんの資金があるわけではない。目の前にいるたくさんの子どもをお腹いっぱいにすることはできない。自分に何か技術があるわけではない。目の前に病気になった子がいても、自分が治療することはできない。もしも自分に何かが残されているとすれば、五感で感じてきたカンボジアという国を一人でも多くの人とシェアをさせていただくということでした。
写真:安田さんの講演中の様子
アンゴラのお母さんの写真
ただすぐに伝える仕事、マスコミの仕事に就こうと思ったわけではありません。私が上智大学で選んだのは教育学科でした。教育方面で何か国際協力に携われないだろうか。この大学で少しでも国際教育を学べないだろうか。
こうして過ぎて行った大学の日々の中でもう一つの大きな出会いがありました。もう何の写真展かもわすれてしまいました。たくさんの写真家が世界の紛争地の写真を展示していた写真展です。私は1枚の写真の前で足が動かなくなりました。当時内戦中のアンゴラ。その難民キャンプの写真の一枚です。ガリガリのお母さんのおっぱいに赤ちゃんがすいついている。状況は絶望的でした。でもお母さんの目の強さに私は射抜かれる思いでした。何とかこの子だけは守り抜きたい。カンボジアで会った子供たちの目にそっくりでした。
フォトジャーナリストの名前は渋谷敦志といいます。今では私にとっては兄であり、人生の師匠である人間です。渋谷敦志の一枚の写真に出会ってカメラを手に取ったのは大学3年生の時でした。そこから徐々に徐々に在学中からフォトジャーナリストという仕事が始まっていきます。
教育とジャーナリズムというのは一見違うもののように見えるかもしれません。しかしどれだけ真摯に人と向き合えるかということは、教育であってもジャーナリズムであっても同じだと思っています。人に対してどのように向き合っていくか、どのような姿勢で人を見つめるのか。その礎えを築いてくれたのが、確実にこの教育学科の在学中でした。
卒業して4年が経ちます。そしてカンボジアに初めて足を運んでから11年が経ちました。今でも目を閉じていてもあの美しい台地が目に浮かびます。そして心の中にはいつも子どもたちの笑い声が響いているように思います。このカンボジアという国。日本とは少しだけ暦の数え方が違います。4月の半ば、クメールニューイヤーと呼ばれています。旧暦で正月を迎えるこの国に、今年こそは子供たちと一緒に正月を過ごしたい。そう考えていた、2011年3月、あの東日本大震災を迎えることとなりました。
2011年3月11日
皆さんの中でこの一本松を実際にご覧になったことがある方は、どのくらいいらっしゃいますでしょうか。
かつてはここに高田松原という日本百景のひとつがあり、7万本の松林がここに生えていたそうです。その7万本がほとんどさら地になっていく中で、一本だけ波に耐え抜いたのがこの松でした。
写真:高田松原の1本松
皆さん、もう一度思い起こしていただければと思います。2011年3月11日午後2時46分。皆さんどこで何をしていらしたでしょうか。私自身はこの時は日本国内におらず、フィリピンの山奥で静かな時間を過ごしていました。日本から次々と知らせが入ってきます。この日私が最後に受け取ったニュース。今回の震災は、地震のエネルギーだけで見ると、阪神淡路大震災の800倍ですというニュースでした。
私事ですが、この2011年、入籍をした年でした。私にとっての義理の両親、義理の父、義理の母が暮らしていたのがこの一本松が生えている、陸前高田市というところです。翌3月12日、フィリピンにもわずかですが、津波が到達しています。この日のフィリピンの地元紙の一面、陸前高田市のことがただ一言、「壊滅」というふうに書かれていました。
岩手県陸前高田市、震災前は人口2万人強の小さな市でした。その中の死者、行方不明者の数あわせて2000人近くに上ります。3月、帰国した私が目にした陸前高田の街というのは、そこにどんな営みが存在したのか想像できないほど街の中心地がごっそりと流されてしまった状態でした。
敢えてこちらに入れさせていただきました。ここからの3枚は、私ではなく、私の父が、勤めていた県立病院から撮影したものです。
写真:陸前高田津波(一)2011年3月11日(クリックで拡大)
写真:陸前高田津波(二)2011年3月11日(クリックで拡大)
写真:陸前高田津波(三)2011年3月11日(クリックで拡大)
これが1枚目です。そしてこれが2枚目。これが最後の写真です。この後父は首まで波につかっています。この写真が撮られたのは、病院の何階部分だと思いますでしょうか?病院の4階部分に当たるところでした。当時県立高田病院は、地震の影響で半分停電状態にあり、父は、人工呼吸が必要な患者さんの人工呼吸を看護師さんと交代で手で行っていたそうです。そこに波がわっと押し寄せてきて、幸いにも患者さんが横たわっていたマットが空気が入ったマットで、それが波に浮きあがって、そこにしがみつきながら人工呼吸を続けたそうです。この日は何とか助けだした100人の患者さんと一緒に、屋上で一晩、寒空の下で過ごしました。
義母が行方不明
そして翌3月12日、自衛隊のヘリコプターで救出された際、義理の母の行方不明が分かりました。義理の母は佐藤淳子という名前でした。ご存知の通り、佐藤というのは日本で最も多い名前です。避難者名簿には、何度も何度も、この小さな街の中であっても同姓同名があがってきました。私たちはそのたびに喜んで避難所にいきました。そしてそれはすべて人違いに終わってきました。
私たち夫婦は何度も父が被災した病室を訪れました。あの時父はどんな気持ちで100人の患者さんと一緒に過ごしたのか。父の気持ちに少しでも近づきたいと思いました。県立高田病院の病室には、何かをつかみかけたような手のあとが無数にこうして残されていました。
震災から2週間後、母の車だけが見つかりました。めちゃくちゃのまま、ギアーはパーキングのまま。車で逃げたのではないことだけは確かでした。ぐちゃぐちゃになった母の車からナンバープレートだけを取り上げたときの気持ちを今でも忘れることができません。
海から9キロ地点で遺体発見
そして震災から1カ月近くたった4月9日。訪れた人はご覧になったかと思います。陸前高田市、気仙川という大変美しい川が流れています。その川の9キロ地点、海など全く見えないがれきの下でようやく母の姿が見つかりました。彼女は9キロ濁流にのまれたまま、家族のように大切にしていた2匹の犬のリードをぎゅっと握り締めた状態で見つかりました。
母は生前、手話の通訳をしていた人間でもありました。今回の震災に限らず、地震で津波警報が鳴ると、真っ先に耳の聞こえない方々のもとに走ったそうです。こんなときくらいは、あるいはこんな時だからこそ、自分自身の身の安全を第一に考えてほしかった。そう考える半面、最後まで誰かのために生きた母の命がこの町の中にあるのであれば、母の命をこの街の中でつないでいきたい。そう考えた私たちは、この町にとどまりました。ただ、圧倒的に破壊されてしまった街で、一体何をしていいのか、何を撮っていいのか、全く分かりませんでした。写真を撮っても目の前のがれきがどけられるわけではありません。避難所の人がお腹いっぱいになるわけではない。私たちにできることがこの町に残されているのか。それが全く分かりませんでした。
たった2人の入学式
そんな中で迎えることになった4月21日。私にとっては一生忘れることのできない日です。小学校、中学校の中でようやく入学式が行われることが決まった日です。この小学校、中学校の入学式の記念写真のお手伝いをさせていただいた日でした。私がお手伝いをさせていただいたのは、気仙小学校と言います。気仙川の河口に最も近かった小学校です。校舎が全壊、体育館は燃えました。この小学校は全壊をしたにもかかわらず、避難所に指定されていた学校でした。今回の震災に限らず、ここにはたくさんの人が避難をする場所でした。少し前に高台の山に避難をしていた子どもたちは、足もとで近所の大人たちが流されていくのをただ見ることしかできなかった。そんな小学校でした。
写真:たった二人の入学式
一見すると賑やかに見える入学式。しかしこれは、高台に残っていた面瀬小学校という別の小学校との合同の教室です。この気仙小学校自体に入学することができたのは、たった2人でした。この2人のために小学校の図書室を使っての小さな小さな入学式が行われました。先生方は2人に語りかけます。2人の命が、この町皆にとっての宝物だから。だからこの学校に通う6年間これだけは約束して下さい。皆の宝物である命を6年かけて磨き続けてください。
この日2人の命は私にとっても大切なことをもう一度呼び起こしてくれました。入学式というたった1日をもってしてもこの日のために奔走してきた先生方がいて、何より避難所暮らしに耐えてきた子供たち自身、親御さんたちがいて、前日まで泥かきのボランティアをしてくれた学生さんたちがいて、現地には行けないけど子どもたちの服を、道具箱を買ってくれた全国の皆さんがいました。
写真は未来への手紙
写真のなせる役割は、最後のほんの一握りです。ただ、一人の人間がすべての役割を果たすことはできなかったはずです。それぞれができることを持ち寄れば乗り越えられることがあるかもしれない。2人の命がこの日、私たちに大切なことを教えてくれました。東日本大震災から3年3カ月。あの時1年生だったあおいくんとふみやくんは今年、新4年生になりました。この街の中で少しずつ大きくなっていく子供たち。この町の先生方、そして大人の方と話していたことがあります。この震災の直後、ほんとんど写真を撮れていないんです。そんなとき地元の方がこんな声をかけてくれました。
あの震災直後こそ写真に残しておいてほしかった。あの時写真を追っている人間を目の前にしたらもしかしたら殴りかかっていたかもしれない。何とってんだって暴言を吐いていたかもしれない。だけど今になって思う。この街の中で一体どこまで波が来たのか。どうやって人々がそこから立ち直ってきたのか。どんどん時間が経つことであいまいになっていっている。次の世代が同じ悲劇を2度と繰り返さないためにも、あのときこそ写真を撮っておいてほしかった。そしてその作業はまだきっと遅すぎないはずです。今起きていることを今伝えるだけでなく、未来に手紙を紡ぐように写真を残していきたい。
伝えるということは何なのか?
この上智大学の卒業生の方々には、伝えるという仕事に従事されている方が大勢いると聞いています。For Others With Others. その信念をむねにこれからも写真に一体何ができるのか。伝えるということは一体何なのか。考え続け、そして一つ一つ進んでいければと思っています。今日こうしてお世話になりましたマスコミソフィア会の皆様、そして在学中、卒業後もお世話になりました上智大学の関係者の皆様に、この場を借りて深く感謝を申し上げます。本日は本当にありがとうございました。
(講演録起こし:磯浦康二 '57文新)