ミルワード先生葬儀ミサでの高柳先生のお説教

8月22日にイグナチオ教会主聖堂で行われたミルワード先生の葬儀ミサでの高柳神父様のお説教です。

  本年は数ヶ月前に、名誉教授の渡部昇一氏が他界され、続いて私が米国留学から戻った時の最初の学生の一人だった永盛一氏が亡くなられました。ミルワード神父が本年帰天された3人目ということになります。英文学科の黄金時代が過ぎ去っていくのを感じます。91歳のミルワード神父は、つい2・3週間前に入院されるまでお達者で、その間、かつ、いつも執筆の手を休められず、最後に入院される日まで続けてられていました。 

  おしなべて平均寿命が年々長くなることと合わせて、そのことを思いながら、ふと私の脳裏にシェイクスピアの後期のロマンス劇「シンベリーン」 の以下の言葉が浮かび上がってきました。

"By medicine life may be prolonged, yet death will seize the doctors too" ("Cymbeline" Scene V)

(医学によって人の人生は長くなるかもしれないが、それでも死は医者たちも捕まえてしまうだろう)

  ミルワード神父を含む私たち4・5人ほどが朝食のためにいつも同じ、6時半に食堂に現れていました。彼はテーブルの会話ではほとんど毎日のように、シェイクスピアの言葉を暗唱し「駄洒落」を連発していました。だからシェイクスピアのこの言葉をいまミルワード神父に捧げようと思います。なにしろ彼にとってシェイクスピアの言葉は聖書の言葉と同じ重みを持っていたからです。

  ミルワード神父は1925年10月12日、ロンドン南郊外の瀟洒な Barnes という地区で生まれ、以後Wimbledonで中等教育を終えるまで父母のもとで育てられました。Wimbledon は有名なテニス場があり国際試合が執り行われるところですが、かつて7・8年前までは、大げさにいえば、そこの教会はロンドン郊外のイエズス会英国管区の一大司牧拠点であり、教会の他に、中高学校がありました。現在は教区が受け持つようになったということを、英国の有名な知識人向けのカトリック週刊誌Tablet で何年か前に読んだと思います。

  ミルワード神父のご両親はともにカトリックでありましたが、お父さんは改宗者、おそらく母親がもとからのカトリックであったということを、戦後まもなく、落ち着いた時、祖国ドイツに帰郷し日本へ戻る途中にロンドンに寄ってミルワード神父の父母を訪ねたロゲンドルフ先生から聞かされています。家族は両親と弟と妹、4人家族だったようです。今ではご両親はもちろん他界されているでしょうが、弟さんと妹さんはどうされているのか、その考えがふと私の脳裏を横切ります。ミルワード神父の手がけた多くの教科書の中に父親との手紙のやり取りがテクストになっているものもあったと思います。しかし彼は家族について語られることはほとんどありませんでした。そこがドイツのラインランド地方で生まれ育ったオープンな性格のロゲンドルフ神父との違いでした。

  ミルワード神父はイエズス会に入会、修練期を経て哲学を学び、普通だったら将来、オックスフォード大学で古典語を教えるか、いくつかあった中高の一つに派遣されて一生を送っていたことでしょう。しかし彼は日本に行くことを選び、志願し、1955年秋来日し、2年間日本語を学び、日本語習得中、横須賀に近い田浦から週一回、四谷の上智で英文学を教え始めました。

  上智大学は同じイエズス会でもドイツ管区にまかされており、英文学科でも Roggen, Roggendorf といったドイツからの人材が英国のケンブリッジ、ロンドン大学で学位を取り、来日し、学科の中心を占めていたのでした。この状態は私たちが入学した1951年でもあまり変わってはいませんでした。ネイティブ・スピーカー(といってもにわかごしらえで送り込まれた米国人のイエズス会員)は1・2年生に英語力を徹底的に教え込むことに専念していました。

  ミルワード神父は英国管区とはあまり関係のなかった日本宣教区に志願して来日したわけで、日本語学校2年終了後、すぐ石神井の神学院で4年間神学を学び3年目に司祭に叙階され、その後10ヶ月ほどの第三修練期を広島で行った後、上智の英文科で教え始め、以後70歳まで教鞭をとられ、その後、執筆と公開講座で教えることをつづけていました。今では珍しくなくなった学生のための夏休み英国旅行を組織し、引率するのを20年間くらい続けてこられました。結局彼は62年を日本、四谷のキャンパスで過ごされたわけです。

  戦後、スペイン、南欧等々のイエズス会の若者の間に日本熱が盛り上がり、1960年代後半まで、各国から神学生が続々とやってくるようになりましたが、英国からは後のミルワード神父が最初であり、その後3人ほど来日しましたが、最後まで残ったのは最初に来日した彼と、もう一人の英語学科のMike Milward だけでした。だから上智の共同体で最後は唯一の英国人の一人ということで、貴重な存在でありました。

  巷ではアメリカ文学が隆盛を極め、戦前に代わってアメリカ英語が勢いをふるっていました。だからブリティッシュ・イングリッシュは希少価値がありました。そいういうわけでミルワード神父の大活躍の下地はできていました。おまけに彼はオックスフォードの学位を持っていましたので、日本英文学会、シェイクスピア学会などで注目され、長らくそれそれの学会で活躍し、重要視される人物であり、率直に言って残念ながら我々イエズス会員の後続の中に彼の活躍を受け継ぐ人材が当面見当たらないことでありましょう。

  一つ、彼についての逸話を紹介しましょう。まだ神学の課程をはじめたばかりのミルワード神学生は、当時、日本管区長との面談の折、新約聖書学を専門に研究して、将来聖書学を教えたいと訴えたようです。当時のアルーべ管区長の答えは、河の流れの真ん中で乗っている馬を換えることはできないというものでした。

  これが本当だったのか、アポクリファ、作り話だったのかはわかりませ。とにかく、その後、司祭になった彼は、それから上智大学英文学科で熱心に70歳まで英文学を教えることになり、学会活動、多くの学術論文、さらには一般向け英語教科書、副読本を休みなく執筆し、出版されたことは驚嘆せざるを得ません。それらは(英)文学の知識を通して我が国民をキリスト教精神に目覚めさせ、カトリックの教えに導く意図があったわけです。

  さてミルワード神父の性格はイノセントで、多少、いや大いに、常識はずれ、あの Chesterton の名作探偵小説の主人公 Father Brown を思わせるものでした。誰から彼のことを absent-minded professor と呼んでも、彼は笑いながら自分からそれを使い、自称し、逆用したいたものでした。確かに、彼がどうやって、どのようなことがきっかけで、この日本に行くことを決意したのかはわかりません。それを語ってもらいたかったと思いましたが、英国人の国民性には日本人の遠慮とか恥ずかしさの感覚に通じる reserve というものがあるようです。しかしabsent-minded といわれても、彼はそれを越えて向こう側を見る、見たいと希求していたに違いありません。彼が他界した今、彼の innosence, absent-mindedness は、そこから出てきたのではないかと思わせられるのです。

  ミルワード神父の生涯はユーモアと駄洒落で人を喜ばせる一生でありました。そして彼は今、聖パウロとともにまじめに、真剣になって言うでしょう。

死よ、お前の勝利はどこにあるのか。                                        死よ、お前のとげはどこにあるのか。  コリント15・54,55

  

 

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