上智大学法学部卒業生の皆さんの「学生時代の思い出」を不定期に掲載しています。あんな人、こんな人、いろんな人が登場しています。
第5回目は宮崎輝雄さんです。
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私の学生時代の想い出は1年生の頃から本格的に携わってきた語劇祭実行委員会に尽きます。毎年12月初旬に平河町砂防会館で各語劇を上演するイベントです。1年生の1968年の時は気楽にやっていたのですが、12月の語劇祭の前に学園紛争の影響もありにわかに慌ただしくなりました。
そのため翌69年の語劇祭参加グループは3か国語程度に減り、各語劇から派遣されている実行委員も激減。私の所属のドイチェルリンクはその年も公演をすると言う事で私は実行委員会に残りました。そして副委員長を拝命。とは言っても総勢は実行委員長とたった2人。翌70年には実行委員長をやらざるを得ないと覚悟を決めておりました。
69年の公演の時にいつもお借りしていた会場が翌年には借りられないと砂防会館から言われてしまいました。それで、翌年年明け早々から会場探しに奔走。当時はネットなど無く、都内にある公会堂やホールなどを電話帳で片っ端からリストアップし一覧表を作り当たってみる。日程や予算など念頭に入れあちこちと足を運びこまめにチェックし交渉をする。今と違って当時の公会堂はボロの極み。赤坂公会堂、杉並公会堂などその典型。千代田公会堂は演劇公演には向かない手狭さ。四ツ谷の母校から比較的近くて交通に便利な所として最終的に中野区公会堂に決定。今ある中野ZEROホールの前身。平らな地形にあり大道具の搬入なども容易に出来そう。そして何よりも中野区公会堂の職員さんたちがとても親切で親身になってくれました。
会場が決まれば次は講演を希望する語劇グループに打診。もともと参加予定のフランス語、ドイツ語の他イスパニア語、ロシア語、ポルトガル語の各関係者と相談。結局、イスパとロシア語が参加決定。ポル語は最終的にまとまり切れず公演を断念。3年生の新学期の単位登録では、必要最低限の30単位しか登録をせず、1単位でも落とすと進級に影響が出かねない背水の陣でスタート。
語劇祭実行委員会の仕事は、各語劇と協力し演劇公演を成功させること。そのためには各語劇グループへの大学からの援助補助を確保すること。まずは稽古をするための会場確保。これは使用する前月までに学生生活課に申請をしますが、当時の学生生活課の職員の皆様にはいつも温かい言葉と支援を頂きました。赤崎さんや課長さんなど皆さんに可愛がっていただき概ね1号館を稽古場として割り振っていただきました。
語劇祭のパンフレット作成に当たっては、諸先輩方を回って広告を掲載していただき広告料をいただくのも大事な仕事でした。また、日本語や英語と違って各語学とも特殊な文字を使うため印刷屋さんが限られていて、原稿や版下、ゲラなどの交渉、校正など印刷屋のある音羽まで足繁く通いました。
大学から支給される活動費は各語劇に配分してしまうため、語劇祭実行委員会としての活動費が枯渇してしまうこと暫し。どうしてもの時は顧問でありましたピタウ理事長にご相談に行くとポケットマネーを下さいました。神父様にお金を頂くなどとても恐れ多いことでした。
夏も過ぎいよいよ秋となると各劇の関係者も慌ただしくしていました。記憶が定かでないのですが、各語劇に入場券付のパンフレットを配布し、その上がりを活動費の回収に充ててもらいました。各劇では仲間内でノルマがあったようにも聞いています。いよいよ語劇週間が始まり各劇ともそこそこに入場者があったように記憶しています。
初日がドイツ語劇、その後の順番は忘れましたが、それぞれの劇でのカーテンコールを舞台のそでで毎日見ていてこちらまで感激してきました。1年間の皆さんの稽古や努力を見てきましたのでそれは人塩でした。全部の劇が無事打ち上げを迎えた時には、この一年を振り返り万感の思いがこみ上げてきました。今振り返るとその一年間は自分にとっての一生の宝物になったと思いました。今でもその時一緒にやってくれた各劇の皆さんには心から感謝を申し上げます。
当然のことながら4年の時は他のみんなとは異なり朝から晩まで授業に明け暮れ、就職内定先からも必ず卒業するようにと発破をかけられていました。そんな慌ただしかった3年、4年の時でも暇を見つけては旅行に出かけてました。忙しい時ほど時間の遣い方は上手くなるものですね。
宮崎輝雄
法学部 法律学科 1972年卒
不動産鑑定士
上智大学法学部同窓会役員
上智大学ソフィア会広報委員
SNSソフィア会代表