2022年1月アーカイブ

上智大学英文学科同窓会新年のご挨拶@2022

 

文学部という文化

巽 孝之

(上智大学英文学科同窓会長)

 

 長く文学部で教えていると、時折、自作の小説や詩を引っさげてやってくる学生がいる。

 「せっかく文学部へ入ったので書いてみました、読んでください」という。中には、帰国子女の強みを活かして達者な英文小説をものす猛者もいる。

 私自身は中学時代には文芸部に属していたから、同人誌活動には年季が入っているので、そうしたアマチュア創作を手渡されれば目を通し、気に入ったものにはコメントする。本務校が永井荷風を初代編集長として創刊した『三田文学』はすでに 110 年を超える歴史を誇るが、その常任理事もかれこれ四半世紀近く務め、昨今では編集顧問も兼務しているから、そういう機会はますます増えた。実際、「三田文学」へ推薦した結果、プロ作家としてデビューしミリオンセラーを放ったゼミ生もいるので、そんな時にはうれしくないといえばウソになる。北米にはクリエイティヴ・ライティングで MFA学位を取ることのできるプログラムがあり、かつてカート・ヴォネガットやホセ・ドノソを擁したアイオワ大学などは世界中の作家を集めた創作ワークショップを行い、創作講座では全米有数の水準を誇る。

 ただし、語源的に厳密を期すなら、「文学部だから自分も文学に手を染めてみました」というのは、間違った動機というほかない。元々「文学部」とは "Faculty of Letters"すなわち「文で書かれたものを研究する学部」であり、必ずしも「文学」の創作を奨励する「学部」ではないからだ。「文学部」における「文学専攻」が部分集合でしかないことからも、それは一目瞭然だろう。その意味では、昨今の「文学部」が名称変更することの多い「人文学部」の方がより文学部的本質を言い表している。

 にもかかわらず、こうした創作志向の学生が出てくることが、文学部の一つの特徴であるのは疑いない。もちろん、少なくとも私が学んだ昭和後半の 1970年代後半には、いわゆる文学研究と創作活動との間には厳然たる一線が引かれていた。あくまで研究が主流で創作は傍流という見解だった。この発想は、文学が主流で文化が傍流という考え方と完璧に類推可能であろう。しかし、まさにそんな階層秩序が成立していたところへ、あたかもそれを転覆するかのように、優れた作家や芸術家が頭角を現す。本当のところは、むしろ文化の方が大きな歴史を成していて、むしろ文学の方がその部分集合だったのかもしれないのだ。

その意味で、昭和末期の1980年代中葉からは、いささか事情が変わってきたような気がする。我が国でも昨年惜しくも急逝された小林章夫先生のように、『コーヒー・ハウス』(1984年)を皮切りに『クラブ』(1985年)、『 ロンドン・フェア』(1986年)、『チャップ・ブック』(1988年)など、それまで我が国では不案内だった文化史から文学史を再検討する試みが登場するようになり、新世紀にはスタンフォード大学教授マーク・マッガールの『プログラム時代――戦後小説と創作講座の勃興』(ハーバード大学出版局、2009年)のように、いわゆる文学研究と創作講座が新批評以降、実は絶妙に連動して発展したことを明かす研究も出現した。

そして、ふと気がつくと、現在の文学部では研究と創作どころか文学と音楽の垣根を取り払う授業が珍しくない。黒人文学者ヒューストン・ベイカーも『ブルース』(シカゴ大学出版局、1984年)で明かしたように、黒人小説一つを読むにも黒人音楽史を抜きには考えられないからである。それは、アン・ダグラスが『恐るべき誠実――多民族都市マンハッタン』(FSG 1995年)で証明したように、1920年代アメリカ文学を語るには文字通りジャズ音楽史の背景が不可欠であることと変わらない。

そんな折に、たまたまコロナ禍という苦境を得たためにオンライン開催となった 2021年度同窓会が、ジャズ・エイジの専門家である宮脇俊文副会長と私のデュオというかたちで実現した。われわれ二人とも、学部時代には研究から見れば傍流にすぎない軽音楽愛好会に属していたため、これは一種の「昔取った杵柄」すぎない。しかし、まさにこうした「文化」から「文学」を見直す視点が得られることもまた「文学部という文化」の属性なのである。