2023年1月アーカイブ

徳永先生の思い出 

私が先生の教えを受けたのは、先生が通訳者として第一線で活躍される傍ら、非常勤講師として時間を割いて上智まで『ロシア語通訳論』の講義に来て下さっていた時だった。その授業は、三年生か四年生の時に希望者だけが選択する週一コマで、1年間だけのお付き合いだった。だからずっと後に、先生が教授になられて、学科で基礎のロシア語からみっちり教えることになったと聞き、後輩達を羨ましく思ったものである。それくらい、先生の講義は常に明晰、ユーモア(駄洒落?)にも溢れ、楽しく、これからロシア語を勉強しようという後輩たちに対する愛に溢れたものだった。

しかし、当時の授業のシラバスには、やる気の無い者お断り的な、結構厳しいことが書かれていたように記憶している。決して出来の良くなかった私は一瞬怯んだが、ロシア語を志したときから、自分の専門の音楽分野を始めとしたロシアの芸術家、文化人の通訳が出来るようになりたい!と思っていたので、とにかく一流の通訳である先生の教えを請いたいと思い、講義に登録した。

実際に講義が始まると、ピシッとダブルのスーツできめて講義にいらっしゃる先生はプロフェッショナリズムの塊りで、そこがまだ甘ちゃんの学生から見ると恐れ多いようでもあり、しかし通訳の仕事に対する先生の真摯な姿勢こそが、学ぶべきことであった。また熱意のある生徒にはとても温かく、親身になって応えてくれる熱血教師だった。

ある時、私は念願叶って、ロシアはクリンのチャイコフスキーの家博物館が日本でチャイコフスキー関連の展覧会をする、というイベントのアルバイト通訳に行けることになり、緊張しつつも嬉しくて小躍りした。しかし、その通訳のアルバイトに行くと、昼間の先生の授業をサボらなくてはならない。迷った私は素直に先生に、そのような予定で講義を一回休むと報告した。すると先生は怒るどころか反対に「授業でやった理論を実践できる良い経験だから行って来い!」と、快く送り出して下さったのである。そればかりでなく、いくつかのアドヴァイスもいただいたような気がする。そして、現場に行って実際どうだったか、結果を報告せい!ということだった。

また、先生が米原万里さん達と設立されたロシア語通訳協会のイベントの情報なども下さり、まだまだひよっこ通訳の私だったが、先生に励まされて、協会の学習会などにも通うようになった。そこでは、他にも第一線で活躍される通訳の方達が沢山いらしたが、私が徳永先生の上智での生徒だと分かると、皆さんとても優しく接してくれ、まさに先生の威を借りて(?)、そうした素晴らしい先輩通訳の方々と交流することも出来、そのおかげで今の自分があると思っている。本当に、先生には計り知れない恩義があるのだ。

徳永先生に大学で教えていただいたのはたった一年だったが、思えばそれ以前にも、ロシア語を志した高校生の時に見た、NHKのTVロシア語講座の中でも教わっていた。そして、当時はちょうどペレストロイカの真っただ中で、ゴルバチョフの重要な演説や、日々入ってくるソ連・ロシア関係の重要なニュースはみんな先生の同通で聞いた。そんな先生のロシア語通訳術のエッセンスが詰まったご著書は、社会人になってからもお守りのように傍に置き、目の前の仕事で必要になる箇所を読み返していた。

近年闘病されていたことも知らなかった私にとって、先生はいつもエネルギーに溢れ、ロシア人も舌を巻くほどのロシア語を話され、豪快に飲んでは通訳・ジャーナリスト仲間たちと語らい、美声で楽しそうにカラオケを歌う...そんなお姿のままだ。心からご冥福をお祈りいたします。
「緑、記者になれ!」

徳永先生の言葉を信じて、今日まで12年間、記者をやってきました。

就職活動で悩んでいたとき、先生のこの一言に背中を押され、私は報道記者になりました。

どうして先生が私に「記者になれ」と言ってくれたのか、今でもわかりません。「私は記者に向いていない」と思ったことは、これまでに数え切れないほどあります。

それでも、今日までこの仕事を続けてこられたのは、先生の言葉がいつも心の中にあったからです。

先生から直接聞いた話や、著書で読んだエピソードから知った、モスクワで取材に駆け回っていた頃の徳永晴美記者。今でも私の憧れの記者です。

「給料は奨学金だと思え」。

日々の事件や事故の取材に疲れて、記者をやめたいと思ったとき。

大きな取材テーマを前に、なかなか自分の能力を発揮できず、自信をなくしたとき。

「緑、学びながらお金がもらえるなんて、最高のことじゃないか」。

先生は常にそう励ましてくれました。

記者の取材は、多岐にわたります。大学でロシア語しか学んでこなかった私が、サンマ漁船の上でカメラを回し、オリンピックの金メダリストにインタビューし、宇宙から地球に帰還した探査機の原稿を書く。その都度、新しい知識を頭に詰め込んで、ニュースとして世の中に発信しなければなりません。

だからこそ、毎日、新たな「学び」があります。

学ぶことが仕事になる。記者って、なんて素敵な仕事なんだ。

先生は、新聞記者時代の経験をいつも懐かしそうに話し、記者の仕事の面白さを教えてくれました。

そんな先生から、「禁句」だと教えられた言葉があります。

「頑張る」という言葉です。

くじけそうになって先生に相談し、元気づけられた私は、いつも「先生、ありがとうございます。これからも頑張ります」とメールを返しました。

そのたびに、先生に怒られました。

「『頑張る』は、禁句だ。頑張るんじゃない。エンジョイするんだ」と。

先生に報告できていなかったことがあります。去年、ロシアによる軍事侵攻が始まったあとのウクライナに、取材に入ることができました。

ロシアによって家を破壊され、家族や友人を奪われ、故郷を追われた、たくさんのウクライナの人たちの悲しみや怒りの声を、ロシア語で取材しました。

つらい取材がたくさんありました。

学生時代にあんなに大好きで、一生懸命勉強したロシア語を、先生方が一生懸命、教えてくださったロシア語を、私は嫌いになってしまいそうでした。

あのとき、もし先生に連絡していれば、きっと、いつもの言葉が返ってきたと思います。

「緑、エンジョイするんだ」と。

不謹慎かもしれませんが、ソビエト連邦が崩壊したときも、病気と闘っていたときも、誰の目から見ても「頑張っている」ように見えた徳永先生は、誰よりも「エンジョイ」していたのだと、私は思います。

今日も大切な取材が待っています。どんな取材でも、いつも不安です。

でも、なるべく「頑張らなきゃ」と思わないようにしています。

私も少しは徳永晴美記者に近づけたでしょうか。そう信じて、今日もエンジョイします。

徳永先生、大切な教えをありがとうございました。いただいた言葉は、すべて私の宝物です。

卒業生有志から2022年に逝去された徳永晴美先生への追悼文をお寄せいただきました。
同窓会ブログでご紹介していきます。
追悼文は、カテゴリ「訃報・追悼」からご覧ください。
また、追悼文をお寄せいただける方は、同窓会メールアドレスまでご連絡ください。
roshiagogakka@gmail.com