ソフィア経済人倶楽部 2015年講演会 第4回

第4回 連続講演会レポート

「ダイバーシティが日本経済を活性化させる」
     ~女性、障がい者、外国人、高齢者の視点から総括する

これまで2年間にわたり、「ダイバーシティが日本経済を活性化させる」という総合タイトルで3回に渡り、講演会をお届けしてきました。2015年12月8日(火)に開催された最終回、第4回講演会の模様をレポートします。

第4回目のパネリスト及びファシリテーターは以下の皆さんです。

パネリスト
細川佳代子様

知的障がいのある人たちが日常的にスポーツを楽しめるように「公益財団法人スペシャルオリンピックス日本」を立ち上げ、現在、名誉会長。また、全ての人が生き生きと暮らせる「インクルージョン(包み込む共生)社会」の実現を目指し、「NPO法人 勇気の翼インクルージョン2015」を設立し理事長就任。文英卒。

西谷武夫様

世界最大級の広告・マーケティング企業グループの傘下でグローバルPRエージェンシー、ウェーバー・シャンドウィックの会長、東京オリンピック招致の影の立役者。2014年オランダ国王から「オフィサー・オブ・ザ・オレンジ・ナッソー」勲章受章。文英卒。

セーラ・マリ・カミングス様

アメリカ、ペンシルバニア州から関西外国語大学に交換留学生として来日。その後、長野オリンピックを機に日本で活動を開始。唎酒師認定を取得後、長野県小布施市の㈱桝一市村酒造場の再構築に取り組み取締役に就任。地域づくりにも貢献したのち、2014年、取締役を退任。現在、里山ビジネス「かのやま」で活動中。2001年日経ウーマン誌が選ぶ「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002」大賞受賞。地域づくり総務大臣賞個人賞受賞。

ファシリテーター
馬越恵美子様 

桜美林大学経済・経営学系教授。上智大学卒業後、慶応義塾大学大学院修了、経済学修士、博士(学術)、ファシリテーター:馬越恵美子氏 桜美林大学経済・経営学系教授、同時通訳、東京純心女子大学教授、NHKラジオ講師、東京都労働委員会公益委員等を経て現職。
主な著書に『ダイバーシティ・マネジメントと異文化経営』(新評論)、『異文化経営論の展開』(学文社)などがある。専門分野は異文化経営論とダイバーシティ・マネジメント。現在、(株)日立物流取締役、異文化経営学会会長なども務める。外仏卒。

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右から細川様、西谷様、カミングス様、馬越様

講演要約
本講演会の企画を担当した加藤春一氏によるこれまでの纏め

日本は天然資源に乏しく、人間資源しかないと言われる。同質的な社会の中で多様化するという課題を2年前から検討するべく企画してきた。ダイバーシティを考える上で3つのポイントをあげたい。

  1. 日本の現状はILOの理念(職業上の差別の禁止)から大きくかい離している。ダイバーシティを考えるときに現実と理想のギャップをどう考えるか。 
  2. グローバライゼーションを見た時、物の自由化、お金の自由化、情報の自由化、人の自由化という流れできた。去年1年で転職をした人は300万人おりその中で20%のひとがダイバーシティの対象になる人々である。そのパイは毎年毎年、増加している。 
  3. 日本にある601の職種があるがこの職種が今後、人工知能とかITCの進化で10-20年後には49%が消滅するという。日本自体が大きな変革にさらされている。

  • 第1回目は女性: 
    管理職の比率は10%で世界で101番目と低い実態、女性の活用をどうするかを議論した。
  • 第2回は障がい者: 
    OECD諸国のなかでも障がい者の就労率が低いことは問題視されている。いかに障害者の就労率を引き上げるかが課題となっている。企業経営者はしっかりとした長期ビジョンを持って障がい者雇用に当たらなければならない。
  • 第3回目は外国人: 
    日本で外国人は増加する。一方で現業の中でひと不足が生じている。外国人を早急に入れないと経営が持たないと言う経営者も多い。ダイバーシティの対象となる方々を日本の中で最適配置をするか、そしてそうした人たちが能力を最大活用することで国際社会の中で地位を向上させる。また、日本経済の活性化にもつながる。


加藤さん 

パネラー各位の発言骨子

・ 細川さんは24年前に熊本で「10歳の少女がスペシャルオリンピックスで銀メダルを獲得」という新聞記事に接して、全ての活動が始まったといわれた。どんなに医学が進歩しても人間が生まれ続ける限り人口の2%前後は知的障がいの子供が生まれてくる。それはその子の周りの人たちにやさしさ思いやりという、人間にとって一番大切な心を教えるために神様が届けてくださったプレゼントであるという。この人たちへの暖かいサポートと支援と理解が必要だと気付かされた。一人ひとりの努力と勇気を称えるスペシャルオリンピックスの価値観に感動し、大会では全ての違いを超えて、皆の心がひとつになってただただ感動で泣いた。その時にこのスペシャルオリンピックを日本中に広めよう、ボランティア活動としてがんばろうと決意をして今日にいたった。 
 スペシャルオリンピックスを日本で広めようとした矢先にご主人、細川護熙さんが総理大臣になったことをユーモアたっぷりにご紹介いただきました。外務省からは県知事時代とは違って国賓対応もあり、しばらくボランティアはお休みしてほしいといわれたことも。その中でスペシャルオリンピックス日本が誕生し、世界大会に20数名の選手を送り出すことができたと秘話を語っていただけました。

・ 西谷さんはこれまでのPRという仕事を振り返りながら世界の中での日本のポジショニングを俯瞰して語られた。PRは一方的な広告ではなく、企業、団体を取り巻くステークホールダーとの2WAYの総合コミュニケーション。それによって企業、団体への理解と支援を得る活動と定義されている。
70年代は輸出全盛時代、この時代は日本企業の海外輸出促進の広報。輸出が成功、成果を上げすぎて米国等から輸出規制の圧力がかかった。いわゆる貿易摩擦が起こる。その対応策として、日本の貿易の実態、公正性を欧米のマスコミ、政府、議会、産業界に説明するのが主な業務となる。米国議会へのロビイングが重要であった。80年には輸出抑制圧力に対応して、日本企業は輸出から現地生産へシフトしていく。その際には、進出先の地域住民対策、日本企業の経済貢献PRが重要になる。最近、取り扱いの多い業務は医療とか医薬の認可・規制問題、デジタル・コミュニケーションへの対応、企業の不祥事・事故など、いわゆる危機管理や報道対応コンサルティングなどである。
安倍政権は、日本の抜本的教育改革を進めようとしている。グローバル人材の育成が課題で、中でも日本人の英語力増進に取り組んでいる。日本人の英語教育とその適正評価をどうするかで、米国TOEFLの開発先の広報政府渉外を担当している。
東京でのオリンピック・パラリンピックの招致を担当したが、前回の16年の招致では中央政府も国民の支持も低く失敗した。国民の支持率は70%ほど必要といわれている。開催地は、世界に散らばる108人ほどのIOC委員の投票で決まるが、一回の招致活動では成功した例が少ない。今回は政府、財界のサポートと一般国民の高い支持率で誘致が成功した。日本の魅力と大会成功の確実性をどうアピールしていけばいいのかを学習し、また、IOC委員やその出身国との友好関係を深めていくロビイング活動が成果を上げたと、お話しいただけました。

・ セーラさん
初めて来日した当時は自分が憧れていた日本が十分に大切にされていればそのまま見て納得して帰ることができたんだなと思います。ですが、日本は足元の大切な文化を見ようとしないで西洋を追いかけることばかりに全力をかけている。この仕事を目指してやってきたというより「誰かが何かをしなきゃ」と口癖になっていた。
オリンピックの一年前から長野にある小さな老舗の酒蔵の再構築の担当になりました。オリンピックが来ることによって新しくなるといういいことがありますが一方で失うものが大きいとすごく強く感じていました。信州は酒どころだったのにもかかわらず一時は100以上のあったのが、半分以下になってしまった。5年も10年も黙ってしまえばさらに消えてしまう。海外に輸出するより、足元から整えてくれれば海外から足を運んでくださるようになると思い、20年間がんばってきました。
私は地方にいると、同じ日本人といっても同じではないと思う。若い人の持ってる世界と先輩の持ってる世界に二極化されている。昔の保守的なところがあるから、男社会女社会を私は「掻き混ぜ棒」をもって、お互いにもってない世界を共有すればお互い成長できると思います。

最初に日本来た時は「よそ者」ということも感じたけれど、命がけでいいものを作るという姿勢が人を動かし、周りの人が認めてくれるようになった。来日した時にイメージした仕事はまだまだ踏ん張りたいところ。日本と世界の掛け橋的な存在になりたいと思った。どうやって子供たちが素敵な未来を迎えることができるか、力を合わせて頑張ればできるに違いないと使命感を感じていると熱く語ってくださいました。

□締めくくりに馬越さんは以下のようにまとめられました。
この連続講演会、今日が最後であるが、ダイバーシティとインクルージョンに加えて、ユニファイドというキーワードが出てきて、一層、深まったと思う。違いを超えて「心の共通点」を見つけた時に、外から見た違和感や多様な属性を超えることができる。日本の心の素晴らしさを活かし、心の共通点を探し出せば、いろいろな壁を越えられる。これからもみなさんとご一緒にダイバーシティを深める機会を持つことができれば素晴らしいと思う。

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会場全体の様子

第4回連続講座の採録は以下の通りです。

ご挨拶: 高祖理事様 今日は最終回ということで講演会の実施にあたった方々に感謝します。12月8日はマリア様の特別な祝日であるが上智にとっても意味のある日。この日が創立記念日になる可能性がありました。創立記念日は11月1日ですが12月8日にする議論もあったのです。ただ今日はマリア様の祝日であることと11月1日は聖人をお祝いする日で必ずミサをあげることになっていることから11月になったようです。 終戦後、大学は男女共学という方針が出たが、しばらくは男子校のままでした。当時の大泉学長が男女共学を進められたが反対もあったようです。教授会で男女共学を決める際に賛否を問うたところ反対の声をあげる人がいなかったので大泉学長は沈黙の中、「消極的賛成」ということで話をまとめたという逸話があります。この方針決定後の上智の躍進は共学化して優秀な女性が入ってくることが大きな力になっています。 また、大学の代表としていろいろな会にでていますが、大学のグローバル化の議論はほとんど日本人の学生のグル―バル化の話にしかならない。そこで日本の大学にいるのは日本人だけではない、いろいろな国から留学できているから全ての人々をグローバル人材として育てる使命を持っていると申し上げることがあります。 これからオリンピック、パラリンピックが目指している共生社会をどう作っていくかに上智大学も貢献したい。そのためにも卒業生の皆さんの様々な角度からの協力がいることをお願いしたいと結ばれた。

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高祖理事長

濱口SBC会長様 SBCでは3年間グローバリゼーションの課題を勉強してきた、これに続いてこの2年間、ダイバーシティの議論をしてきました。グローバル化した社会ではダイバーシティが非常に大事な課題であるダイバーシティの意味について皆さんと議論していきたいと思います。

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濱口会長

今回の連続講演会の企画者であるSBC理事、加藤春一さんからこれまでの議論のまとめをお話しいただいた。 日本は天然資源に乏しく、人間資源しかないと言われる。同質的な社会の中で多様化するという課題を2年前から検討するべく企画してきた。ダイバーシティを考える上で3つのポイントをあげたい。

  1. ILO国際労働機構で記されている理念;男女の性別・年齢・障がいの有無、宗教、民族、移民難民を含めて職業に一切差別はあってはならないという理念が有名。日本においては厚生労働省が管轄する日本の現状はILOの理念から大きくかい離している。ダイバーシティを考えるときに現実と理想のギャップをどう考えるかということ。 
  2. グローバライゼーションを見た時、物の自由化、お金の自由化、情報の自由化、人の自由化という流れできた。人材紹介業というものも45年前は数十社しかなかったものが現在は2万社を超えている。去年1年で転職をした人は300万人おりその中で20%のひとがダイバーシティの対象になる人々である。そのパイは毎年毎年、増加している。 
  3. 市場の拡大はあるが質の面ではどうか?ということ。英国オックスフォード大と野村総研が共同研究した論文資料によると日本にある601の職種があるがこの職種が今後人工知能とかITCの進化で10-20年で49%が消滅するという。日本自体が大きな変革にさらされている。

・ 第1回目は女性;2770万の女性労働人口があるが現実に78%が就労しているが、これはやっと先進諸国のレベルになってきた。しかし、管理職の比率は10%で世界で101番目と低い実態があり、女性の活用をどうするかを議論した。 ・ 第2回は障がい者に焦点を当てた。障がい者は世界73億のうち10%いると言われている。日本では787万人に上り、そのうち身体障がいのある方が383万、精神の障がいが320万、知的障がいの方が74万人となっているが、現実の就労者は44万人しかいない。非常に低い。OECD諸国のなかでも障がい者の就労率が低いことは問題視されている。いかに障がい者の就労率を引き上げるかが課題となっている。現実には法定雇用率の2%が 50人以上の企業は2%、法定雇用率は2%から2.3%に上がると見られている。企業経営者はしっかりとした長期ビジョンを持って障がい者雇用に当たらなければならない。 ・ 第3回目は外国人を取り上げた。外国人は日本で200万強いるが、就業者は95万人しかいない、17,8万が不法就労していると言われる。なおかつ、日本で専門職、技能職は17,8万いるが確実に増えており、2020年は23-24万レベルになっていよう。なお一方で現業の中でひと不足が生じている、医療、介護、福祉、建設、外食、小売産業で払底して入れう。外国人を早急に入れないと経営が持たないと言う経営者も多い。

今日は高齢者、LGBTも含めて考えたい。4人に一人の高齢者はますます増えていく。このうち就労者は590万しかいない。高い知識を持った高齢者を活かしていくことが求められる。LGBTはこの人口が日本では600万人いると言われる。LGBTを差別していけないと言われているがダイバーシティの対象となる方々を日本の中で最適配置をするか、そしてそうした人たちが能力を最大活用することで国際社会の中で地位を向上させる。また、日本経済の活性化にもつながる。ダイバーシティに対象の方が生き生きと働けるようにする、周辺の人たちを活性化することが求めれる。
今回4回目の総括が今後のダイバーシティを考えることに貢献できればと考えている。

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馬越さん

ここからシンポジュームに入り、ファシリテーターの馬越恵美子さんにバトンタッチ。

馬越さん:今回は冒頭、講演という形でなく、パネルディスカッションという形にしました。パネラーの紹介のあと、それぞれのパネラーから自己紹介とダイバーシティをどうとらえているか、発言をお願いします。 まず、細川佳代子さんに自己紹介とダイバーシティをどう考えているかをお聞きします。

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細川さん

細川さん:多彩な仕事をされているとご紹介いただきましたが実は私、ボランティアがほとんど。給料をもらったのは3年だけです。上智大学を卒業してから、アルバイトで働いておりました会社の社長さんからのお声掛けでジュネーブで仕事をさせて頂きました。いろいろあったのですが、23歳でたったひとり、親戚も友達も誰もいないヨーロッパで働いたという体験をいたしております。

帰ってきて結婚してからは全部ボランティア人生です。ダイバーシティという社会を変えるというテーマですが、ボランティアでもこんなにがんばってきたということをみなさんに少しでも分かっていただけたらとお引き受けいたしました。

私のボランティア活動は70年を超える筋金入りです。すごいでしょう。2歳半のときに最初のボランティアをしました。満州から父の転勤で東京勤務になりまして2歳半のときに鵠沼海岸に移り住みました。母が一番下の私だけ連れて近所に挨拶まわりをしたそうです。何にも覚えておりません。

すぐ隣の家にいったところおじいさんがでてきて是非あがってくれと、重度のリウマチのおばあさんがいらっしゃって、おばあさんがおいでと布団をあけて、そこにもぐりこみました。その居心地のよさが病み付きになり、毎朝、そのお宅にハイハイして行って、おばあちゃんのお布団に入ることがボランティア活動の始まりです。

今から24年前、熊本に住んでいて、新聞を読んでいましたら、ともこちゃんという、スペシャルオリンピックスで体操床運動で銀メダルをとった10歳の女の子の笑顔の写真がありました。そして、生まれて初めてスペシャルオリンピックスの存在を知りました。それからです、始まったのは。

ともこちゃんは3歳児で、かなり重いダウン症、しかも耳がほとんど聞こえない。喋ることも歩くことも不自由な女の子でした。ともこちゃんをコーチしていた中村さんを勉強会にお呼びして、ともこちゃんが如何に銀メダルをとったかという話を伺いました。その時、中村さんはある牧師さんの話をされました。「どんなに医学が進歩しても人間が生まれ続ける限り人口の2%前後は知的障害の子供が生まれてくる。それはその子の周りの人たちにやさしさ思いやりを人間にとって一番大切な心を教えるために神様が届けてくださったプレゼントである。本来は実はすごい能力や可能性をいっぱい秘めて生まれてきているがそれを人に伝えたり、発揮することが自分ひとりではできない。彼らの人生が幸せになるか不幸になるかは、どれだけ理解のある両親、社会、国に生まれるかで決定する。この人たちへの暖かいサポートと支援と理解が必要だ。」

私の人生が変わりました。まったく間違っていました。神様はなんでこんな不平等なことをなさるのか、かわいそうに家族も本人も大変。そういう方たちの親の会もいっぱいあります。それで私はそういうお母様、役員の方にあえば「大変ですねご苦労様です。主人に伝えておきます」。それだけが精一杯。実は心の中で「私の子供は無事でよかった」と胸をなでおろしていました。結局、人は自分が大事なんです。自分のことしか考えていないひとりよがりの傲慢の人間になっているんだなあと私は思いました。日本に生まれてくるほとんどの障がい者がどれだけ厳しい人生を送っているか、ご家族がどれだけ苦労されているか、やっと気づいたのです。

中村さんからは「細川さん、自分はスペシャルオリンピックスの素晴らしさを広めるために、体操とかスポーツなら仲間を探せるけどお金集めしたり人を集めたり色々話をしてくれる人が必要。細川さん手伝ってくれないか」といわれました。それなら出来るかもしれないと思いました。

さっそく、熊本で勉強会を開き、アメリカ本部のアジア局長に来ていただいて色んな話をしていただきました。その会の前にわかったことですが、日本のスペシャルオリンピックス委員会が解散してしまっていたんです。世界で途中でなくなったのはバングラディッシュと日本だけです。ところが、東京からこんな離れた九州の田舎でこんなにたくさんの人が一生懸命勉強している。全面バックアップするので半年後にオーストリーで開かれる冬の世界大会に、二人だけ選手を受け入れていいと言って下さいました。そして私は初めてスペシャルオリンピックスの世界大会を経験しました。大感激のオリンピックスでした。トップを選ぶオリンピックではない、がんばった子達が表彰される。どれだけ努力をしたか、あきらめずに最後までがんばったかが評価される。2回転がっても諦めずにたちあがってゴールした丸々太った10歳の男の子はついにゴールを踏んだとき、拳を上げたまましばらく動かなくなってしまった。その時も会場中の人が皆拍手して「ブラボーブラボー」と泣いている。これが本物のオリンピックだ。世界中の人が皆心一つに涙を流すなんてことは普通のオリンピックではありえません。全ての違いを超えて、皆の心がひとつになってただただ感動で泣いていました。その時にこのスペシャルオリンピックスを日本中に広めよう、これから第一のボランティア活動としてがんばろうと今から23年前に決意をして今日にいたりました。

2005年には長野で冬季の世界大会を開催することができました。上智の関係者がいっぱい協力してくださったあの大会は、今までの最高の運営といまだにほめられています。

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西谷さん

西谷さん:上智を卒業した後、細川さんがジュネーブにいる頃なのですけど、私はオランダのアムステルダムにおりまして、そこで市の観光協会と振興財団で、日本からの観光客と企業誘致をしていたわけでございます。

5年間、アムステルダムのPRを現地で担当したのですが、その時、業務を委託していた東京の国際PRの会社に入りました。その会社が今のウェーバー・シャンドウィックに買収されたわけです。当初からPRの仕事を選んだわけではありませんが、PR一筋で通算半世紀もすごしてしまいました。

PR会社といいますと広告会社ですかという話がよく聞かれますが、前身の国際PRも今のウェーバー・シャンドウィックも広告は扱っておりません。PRは企業、団体を取り巻くステークホールダーとのコミュニケーションで、広告とは違う2WAYの総合コミュニケーションを図ることによって企業・団体への理解・支援を得るものと定義されております。

私は71年に今の会社に入りました。その頃はちょうど日本企業の輸出全盛の時代です。60年代に輸出促進の海外でPRを担当し、輸出が成功しまして米国等から輸出規制をしなさいと大きな圧力がかかった頃でもあります。いわゆる貿易摩擦の時代です。そういった中で私どもは、日本の貿易の実態を米国のマスコミ、政府、議会に説明していく仕事を請け負ってきたわけです。テレビや鉄鋼の輸出自主規制PR、半導体戦争での広報合戦などです。

80年代になりますと、日本企業は輸出するだけじゃだめだ、現地生産に移しなさいとの圧力がかかりまして、日本企業の工場進出が盛んになります。工場をつくるとなると現地での住民対策や日本の企業の「良き市民としての」イメージPRを担当しました。

最近では、医療とか医薬の認可・規制問題、SNS等デジタルの発達に起因するコミュニケーションの問題、企業の不祥事、事故などのいわゆる危機管理や報道対応を企業の皆さんにコンサルティングしていくという仕事が増えております。
 
私にとって、最も印象深いのは80年に米国でレーガン政権にはいった頃、日本政府の海外からの調達は閉鎖的で、調達額が低すぎる。ついては今のNTT、当時の日本電信電話公社の電気通信機器の海外からの調達解放を米国から迫られました。米国のメーカーが日本に通信機器を輸出しやすいような政府間協定を作り、調達額を増やすという課題が突き付けられました。日米で通信機器調達交渉がはじまるわけですが、私どもはNTTのためにこの難題に取り組みました。米国政府がなぜ、そのような圧力をかけてくるかの調査をしたり、議会の様子をヒアリングして、どういうコミュニケーションをしていくのかのコンサルティングです。

当然そういう中で米国議会の上院下院の重要な人たちと議論したり、陳情したり、政府高官と意見交換したり、いわゆるロビイング活動を展開しました。また、日本の状況、立場を新聞・雑誌等を通じてアピールしていく広報活動を実施しました。私はPR会社育ちですが、主に対政府渉外活動を専門的に手掛けてきました。

具体的な例をもう一つ申しますと、今ではガン保険で有名なアフラックの日本進出サポートです。36,7年前には、日本には民間では火災などの損害保険と死亡した場合に給付される生命保険、この二つの種類の保険しかありませんでした。ガン保険はこれらの保険とは違う中間分野のものです。また、ご存知のように国民健康医療保険とも違います。入院したときに差額ベッド、そういったものを補給する保険です。それから健康保険診療でカバーされない特定の治療をした場合に補償金を払うもの。損害保険でもない生命保険でもありません。アフラックがどういう言い方をしたかというと、「生きるための保険」です。ガンになった患者が、いかに安心して、快適に病院で治療をうけられるか、元気に生きるか、それを補完するサービスです。当時はまだ、ガンというと村八分になるというようにガンに対する理解がない時代でした。日本では欧米と食習慣などが違うといって、患者が大変少なかった時代です。すべての保険の許認可権をもっているは大蔵省ですが、規制が厳しく新しい分野の商品をいれることに大変な抵抗がありました。4年近くかかりました。有識者の方々、医療関係者の方々に日本でもガン患者が増えていく。そのためには患者さんが安心して治療できるような新しい保険を認可してくださいというロビイングをしたわけです。今日では、みなさん、ほとんどの人がガン保険に入っていると思いますけれど、これは当時の裏話です。アフラックは米国ジョージア州の片田舎にある小さな会社でした。日本にガン保険という画期的な製品を持ち込み、大成功しています。アフラックは今や、日本では国内生保を抜き、最大の保険契約数を誇る会社に成長しています。

今、日本では教育改革を進めようとしています。特にグローバル人材の育成ということで、英語力強化が問題になっております。私どものお客さんの中に、米国のNPOでイングリッシュテストサービス(ETS)という会社があるんですが、TOEFLという英語テストがごさいますね。SATという米国での大学入試資格共通試験、そういうものを開発しているNPOです。私どもは、この世界標準の英語テストの日本での広報・渉外業務を請け負っております。日本での普及PR活動と同時に、日本人の英語教育問題をどうするかという勉強も毎日続けております。(結構な齢にになりましたが、まだ英文科を卒業できずに現役で頑張っております。よろしくお願いします。)

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セーラさん

セーラさん:今日みなさんにお目にかかることができてとても嬉しく思っております。12月8日というのは記念すべき日だと最初から言われていたのですが、私も思い出してみれば大学時代この日に合格通知が届いた日。ちょうど日本に留学にいけると合格通知が届いた日はなんとパールハーバーの記念日でした。それまで親から「ダメ元でがんばってごらん」と言われていたのにもかかわらず、合格通知がきたとたんに「行くな」と言われ、それまで「自分の道は自分で決めなさい」と言っていたのに、一歩踏み出そうとしたところいきなり壁ができた。私がここまで続けてこられたのはこの壁があったおかげなのでは。80年代から90年代のはじめちょうど90年代の秋から交換留学生としてやってきましたが、「ダイバーシティ」は人を受けいれられないと変わらない。

摩擦は耳も閉じて目も閉じて心も閉じていれば何も開かない。自分の目で確かめて、まだ富士山登れるうちに日本にやってきたい、そんな簡単な気持ちで地球の裏から飛んできた。
当時は自分が憧れていた日本が十分に大切にされていればそのまま見て納得して帰ることができたんだなと思います。ですが、日本は足元の大切な文化を見ようとしないで西洋を追いかけることばかりに全力をかけているのか、この仕事を目指してやってきたというより「誰かが何かをしなきゃ」と口癖になっていた。何もしないのではどうにもならないから、やれるだけのことをやれば少し未来に届くものかもということからやりだしました。当時は何を提案してもダメといわれていたんですが、親とまったく同じですね。日本に来るために子供のときから育っていたのではないかと思う。

ただ今日、この上智大学にやってくるとアットホームな気持ちになれた。大学の町に生まれ育ち、父は電子工学の教授だったからだと思います。小さな大学の町だったんですが5万人の学生がいる、「ごまん」といるわけで、自分の個性を見出せないとみなと同じようなことをやってもしかたがないと思いまして、当時は実は入学した年から上智大学と姉妹校になった。上智大学に行くのか関西外国語大学に行くのか、選ぶ分かれ道があったんですが、たまたま関西外国語大学の若者の家庭教師もしていたので、関西にいきまして、今日みなさんに会えることができてすぐに結ばれないご縁もいつか結ぶものなんだなと、まるくなったんだなと思い、すごく嬉しく思っています。

そもそもなぜ長野で就職したのかというと偶然に飛行機の中で長野オリンピック招致活動に関わっていた方々と出会いまして、その場で日本語で話をしたり元々陸上部の選手だったから、オリンピックが日本で決まってよかったという話をしたら「この出会いも一期一会ですね」となって、二週間後、日本で面接できることになりました。「一五輪一会」というような。また、もうないと思っていたら、またあるんですよね。東京オリンピック組織委員会の文化教育員にも任命され、長野だけでなくもっとオールジャパンの位置づけとしてがんばっていきたいと思っています。

オリンピックの一年前から長野にある小さな老舗の酒蔵の再構築の担当になりました。オリンピックが来ることによって新しくなるといういいことがありますが一方で失うものが大きいとすごく強く感じていました。信州は酒どころだったにもかかわらず一時は100以上のあったのが、半分以下になってしまった。5年も10年も黙ってしまえばさらに消えてしまう。

当時国内の市場は少なくなっても海外の方々が好きになってくれれば明るい未来が来るに違いないと確信していました。ただ「二兎追うものは一兎も得ず」ならば、海外に輸出するより、足元から整えて海外から足を運んでくださるようになれればと思い、20年間がんばってきました。やっとバトンタッチが出来るようになったので今度は限界集落に移り住みました。限界集落は限界過ぎれば無限界でしょうと思っています。サスティナブルな暮らしは可能なんです限界集落は。大都市だと可能ではないかもしれないが里山再生に国内の方々だけではなく海外の若者も巻き込みながらみんなの力あわせていけば小さなモデル町がつくれる。一つの小さなモデルができれば、ほかの里山再生の参考になっていけたらいいなと思っています。
私は地方にいると同じ日本人といっても同じではないと思っている。若い人の持っている世界と先輩の持ってる世界に二極化されている。昔の保守的なところがあるから、男社会女社会を私はかきまぜぼうをもって、お互いにもってない世界を共有すればお互い成長できると思います。

自分の最近キーワードは何でも使い捨てしまうことでなく、いらない人はない。みんな必要。その中でコンプリートデリートキーワードに。お互いに不十分な所があれば お互いに補っていけば間に合う。たぶんそれがこれまで日本の強みだったのではないのかと思うので、国際化するなかで「お互いに大事にしよう」を忘れずにやっていきたいと思います。


馬越さん:皆さん、素晴らしいお話ありがとうございます。今日は女性:男性が3:1、日本の社会の組み合わせからすると大分ずれていますが、西谷さん居心地は?西谷さん:悪くないですよ。ここで、居心地がいいという西谷さん、やはりすごいですね。西谷さんの書かれた「パブリック・アフェアーズ戦略」(東洋経済:「グローバル競争とルール・メイキング~パブリック・アフェアーズ戦略」)、読み応えがありました。必須の本ですね。さて、続いて憧れの細川先輩にお伺いします。情熱的に、直球でボランティアにあたってこられた取り組みと、普通、経験できないファーストレディーとしての生活にどのように折り合いをつけてこられたのか、お聞きしたいのですが。

細川さん:考えてもいなかった。阿蘇の山奥に自分で運転して2時間近くかけて支援者の方のお参りにいった帰りの車の中で聞いたニュースで首相に選ばれたと。「うっそ、冗談じゃない」と思いました。それでこの先どうなるのだろうと思い、何を考えたかというと、その前にスペシャルオリンピックスを日本中に広めようと決心をしました。アメリカ本部の方から2年後の世界大会の夏の大会に日本代表を受け入れるには東京に組織を作っておかなければいけない、熊本はあったが全国で数箇所活動が始まっていなかったら次の2年後の95年の夏の大会には日本代表としては受けられない、がんばりなさいといわれ、どうやって日本中に広げようかと考えていました。 東京と神奈川にいる昔の友達全員だましてひっぱりこもうと。それで東京と神奈川ができると3つになる。あとは近隣の福岡、佐賀で始めようと思った。ところが当時は安売りチケットなんてなく往復で数万円する。ボランティアにつぎこむようなお金がないので、東京はあきらめよう、九州でがんばるしかないと思っていたときに突然東京に引っ越すことになり、行った先が首相官邸。神様は私の活動を応援していると、いいように考えてしまった。引っ越してから、いよいよ昔の友達に声かけてどんどん話し合おうと思っていました。

するとある日、外務省から2人みえまして、細川夫人の過去を調べると知事夫人時代に大変活発にボランティア活動をなさっていますが知事の場合と総理の場合は違います。総理の場合はいつ国賓がみえるかわかりません。夫婦同伴でみえます。やっぱり奥様もご一緒してほしいと思いますので、しばらくボランティアはしないでくださいといわれた。 せっかくチャンスと思ったのにストップをかけられ、がっかりです。でもダメだといわれたらこっそりするしかない。毎晩考えていて「そうだ。いいこと思いついた」。この政権長く続かない。絶対半年くらいだと思った。しばらくじっとして年があけたころから隠密に動き出そうと。まさに読みどおりいった。最初は忘れもしない東京上野奏楽堂でのチャリティーコンサート。小学校から上智まで一緒だった田中さんがコンサートで、お金集めてくださって、そこの幕間で初めて東京のみなさんにスペシャルオリンピックスの話をしました。そこから始まったんです。さてどうやって隠密に動かそうかと考え、政権が半年で終わるかどうかが気になって、本人に「あとどれくらいもちそう」と聞いたら「そうだな、春ぐらい」と言われました。そのとおり春に予定通りに私のスケジュールが組まれて、11月28日に熊本のホテルでスペシャルオリンピックス日本が誕生。スペシャルオリンピックスの世界大会に20数名の選手団を送ることができたんです。これが首相時代の最高の思い出です。

馬越さん:おもしろすぎますね! 西谷さんどうですか?オリンピックス招致では影の立役者でいらっしゃる。今回は東京に招致できましたが前回はダメでした。今回と前回の違いはどういうところにあったのでしょうか?
西谷さん:私どもは16年も招致活動をさせていただいた。16年はもりあがらなかった。それが大きな理由かなと私は思っています。当時は民主党鳩山さん。政府も熱心ではなく財界も国民の支持も低かった。 オリンピックで招致成功するボーダーラインというのはIOC基準で国民の支持が70%以上ないとだめと言われています。16年は50%ぎりぎりだった。20年のときは70%超えましたしオールジャパンのサポートがあった。テクニカルなことがありましてオリンピックはご存知のようにアジア・ヨーロッパ・アメリカ大陸、3拠点をローテー%

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