「会員の広場」第4回 稲田明弘(1975・機械卒)

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〔投稿者〕 稲田明弘(1975年機械工学科卒)

「世界をつなぐひとになろう」

 1976年9月が私の代の就職試験が始まった月でした。故市川教授の制御研究室に所属していた関係から計装制御のY社を第1志望としましたが、試験日の前日にサッカーでひどく足をくじいてしまい就職試験の初日を無断欠席して病院で治療を受けました。この事件が私の職業人生のスタートとなりました。当然のごとくY社には不合格となり、タイミングを逸して電気電子部品のA社に拾って頂きました。
 上智大学在学最後の大学院時代に、同校の帰国子女の学生を講師に研究室仲間の3名と英会話を始め、夏休みにカナダまで遊びに行った英語圏での経験がA社で役に立ち、27歳~29歳の約半分の期間、米国からの技術導入の担当に選ばれ貴重な経験を持つことができました。その後は山あり谷ありのサラリーマン人生で、この間に携わった音響用・映像用磁気ヘッドやフロッピーディスク用・ハードディスク用磁気ヘッドは時代の変化に伴い世の中から姿を消し、液晶ディスプレイ素子も今では日本は敗者の立場となりました。
 2000年に48歳で脱サラし技術士事務所を始め、時を待たずにJICAのODA(政府開発援助)で再スタートを切りました。最初の渡航先はパキスタンでした。一人で夜のカラチ空港に着き、換金した紙幣が臭い事や空港の外にたむろする浮浪者の不気味さなどに面喰い、ひどい下痢も体験し度胸がつきました。パキスタンODAでは、北京経由でイスラマバードへの空路途中、満月の夜に雪で覆われ白く輝くヒマラヤの山々を飛行機の窓から眺めた景色は忘れられません。その後、タイ、メキシコ、チュニジア、モロッコ、ベトナムなどで相手国の裾野産業の育成支援に係わってきました。

 メキシコとのJICA業務の係わりは2006年から始まり、今年2021年で足掛け15年目となります。 1件のプロジェクト期間は4~5年間と長く、50歳後半から1年の3~4ケ月を現地のホテルで過ごす独身生活のため自炊も苦に成らなくなり、スペイン語も拒絶反応が無くなりました。この間に大統領が4人変わり、リーマンショック(2008年)、東日本大震災の大事件がありました。ホテルのTVで見た津波の映像に驚愕し、数日後の帰りの航空経路は原発事故の放射能汚染を避けるためか、日本列島を横断して日本海側の新潟上空を引き返し成田空港に着陸しました。
 メキシコに15年間も行き来をしているとその国の文化の理解も深まります。メキシコの人々から、生活を楽しむ事(写真1)、家族や知人を大切にする思いやりの深さ、そして最後まで諦めない粘り強さ(希望を失わない)などの私に欠けていた彼らの良い面を知ることができました。この気づきは、その後の私の生き方に少なからず良い影響を与えてくれています。そして孤軍奮闘を常としてきた個人技術士事務所は早いもので20年が過ぎ、現在も続いています。
 2016年の上智大学100周年記念の年に、機械科第4期生(69年卒)の清水宏祐さん(2020年9月死去)に依頼され、「世界をつなぐひとになれ」とかかれたフランシスコ・ザビエルのポスター(写真2)をメキシコソフィア会の滝本会長(64年イスパニア語学科卒)に持参しました。清水さんは、2016年の機械科第1期生の金祝の準備(写真3)のお手伝いや69年卒の金祝の学年代表を務められたり、機械科の機関誌「過流」の再刊(写真4,5,6)を働きかけるなど、何にでも積極的な先輩でした。私は清水さんの誘いのお陰で色々な世界(機械科の諸先輩方など)をつないでいただき、写真の様に愉快な時間を過ごすことができました。

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写真など

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